古事記・日本書紀のなかの史実 (33)~神生み⑱ ツクヨミ
三貴神のアマテラスをみてきましたが、次は月読(ツクヨミ)命です。
アマテラスが、左の眼を洗ったときに生まれたのに対して、右の眼を洗ったときに生まれたのがツクヨミです。アマテラスの日に対して、月に対応しているわけですから、アマテラスとセットの神です。
そして支配領域として、古事記では、
アマテラス・・高天原
ツクヨミ・・夜の食国(をすくに、世界)、滄海原(日本書紀一書)
スサノオ・・海原、根の国(日本書紀本文・一書)
となっていることからも、きわめて重要な神といえます。

ところがです。ツクヨミは、その後ほとんど登場しません。
”日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。
これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。”(Wikipedia「ツクヨミ」より)
皇祖神であるアマテラスと乱暴者のスサノオの間の緩衝としての役割を担っている、という解釈です。
ところで、世界の神話をみると、
”太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。”(「日本神話の起源」(大林太良)、Wikipedia同上より)
とあるとおり、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの組み合わせは、よくみられるパターンです。
一方で、
”太陽よりもむしろ数量的に月の神話のほうが多く、昔から、月に対する人々の関心が高い。”
との指摘もあります。
その理由として、
”月は太陽に比較して変化のサイクルが明確で、記紀神話でツクヨミ神が海の神でもあるように、海潮の干満とも、またその周期が女性の生理とも類洞し、暦や農耕・漁労活動とも関連性をもち、人間生活と深く結びついている。”
と述べられています(「世界神話事典 創成神話と英雄伝説」(伊藤清司ほか)P430より)。
ようは、月は人間生活に深く結びついていることから、太陽より月の神話のほうが多い、ということです。
このようにみてくるとやはり、ツクヨミの登場がほとんどないのは、違和感を感じます。
ではなぜツクヨミは、古事記・日本書紀では、ほとんど触れられていないのでしょうか?
可能性のひとつとしては、もともとはツクヨミの神話があったのだが、何かの都合で削除した、あるいは伝わらなかったのではないか、というのが考えられます。
「何かの都合」とは、「伝えると都合の悪いことになるから」ということですが、どういうことでしょうか?
私のブログや著書をお読みいただいている方にはピンときたと思います。
そうです。「九州王朝」の人々が信仰していたからではないか、という疑いです。
古事記・日本書紀は、ヤマト王権の歴史書です。そこでは「九州王朝はなかった」ことになってます。そうであれば、九州王朝にまつわる話はすべてカットされたはずです。
あるいは、九州王朝が滅亡して、九州王朝にかかわる信仰も消えてしまった、という解釈もできます。
これは、前回までみてきたホアカリも同様です。ホアカリもアマテラス系の本流でありながら、記紀にはその後全く登場しません。これも、ホアカリの伝承をカットしなくてはならない事情があったのではないか、という疑いがあります。
次回さらにみていきましょう。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
アマテラスが、左の眼を洗ったときに生まれたのに対して、右の眼を洗ったときに生まれたのがツクヨミです。アマテラスの日に対して、月に対応しているわけですから、アマテラスとセットの神です。
そして支配領域として、古事記では、
アマテラス・・高天原
ツクヨミ・・夜の食国(をすくに、世界)、滄海原(日本書紀一書)
スサノオ・・海原、根の国(日本書紀本文・一書)
となっていることからも、きわめて重要な神といえます。

ところがです。ツクヨミは、その後ほとんど登場しません。
”日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。
これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。”(Wikipedia「ツクヨミ」より)
皇祖神であるアマテラスと乱暴者のスサノオの間の緩衝としての役割を担っている、という解釈です。
ところで、世界の神話をみると、
”太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。”(「日本神話の起源」(大林太良)、Wikipedia同上より)
とあるとおり、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの組み合わせは、よくみられるパターンです。
一方で、
”太陽よりもむしろ数量的に月の神話のほうが多く、昔から、月に対する人々の関心が高い。”
との指摘もあります。
その理由として、
”月は太陽に比較して変化のサイクルが明確で、記紀神話でツクヨミ神が海の神でもあるように、海潮の干満とも、またその周期が女性の生理とも類洞し、暦や農耕・漁労活動とも関連性をもち、人間生活と深く結びついている。”
と述べられています(「世界神話事典 創成神話と英雄伝説」(伊藤清司ほか)P430より)。
ようは、月は人間生活に深く結びついていることから、太陽より月の神話のほうが多い、ということです。
このようにみてくるとやはり、ツクヨミの登場がほとんどないのは、違和感を感じます。
ではなぜツクヨミは、古事記・日本書紀では、ほとんど触れられていないのでしょうか?
可能性のひとつとしては、もともとはツクヨミの神話があったのだが、何かの都合で削除した、あるいは伝わらなかったのではないか、というのが考えられます。
「何かの都合」とは、「伝えると都合の悪いことになるから」ということですが、どういうことでしょうか?
私のブログや著書をお読みいただいている方にはピンときたと思います。
そうです。「九州王朝」の人々が信仰していたからではないか、という疑いです。
古事記・日本書紀は、ヤマト王権の歴史書です。そこでは「九州王朝はなかった」ことになってます。そうであれば、九州王朝にまつわる話はすべてカットされたはずです。
あるいは、九州王朝が滅亡して、九州王朝にかかわる信仰も消えてしまった、という解釈もできます。
これは、前回までみてきたホアカリも同様です。ホアカリもアマテラス系の本流でありながら、記紀にはその後全く登場しません。これも、ホアカリの伝承をカットしなくてはならない事情があったのではないか、という疑いがあります。
次回さらにみていきましょう。
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