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古事記・日本書紀のなかの史実 (37)~神生み㉒ 出雲と紀伊と大和

スサノオの熊野というと、和歌山県の熊野本宮大社が有名です。では、島根県の熊野大社と熊野本宮大社とは、どのような関係なのでしょうか? 詳しくみてみましょう。

”和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野三山の一つ。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。
詳しい創建年代は不明であるが、社伝によると崇神天皇65年に熊野川の中洲、現在の大斎原(おおゆのはら)の地に創建されたとされている。

「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明である。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中洲に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。家都美御子大神については他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係するとの説もあるが、やはりその素性は不詳とされる。” (wikipedia「熊野本宮大社」より)

何かすっきりしないところが多いですね。
祭神のケツミミコノオオカミが不詳であり、本当にスサノオの別名なのかは、判然としません。

創建が崇神天皇時代となると、神代というより人代にはいった時代です。伝承なのではっきりしたことはいえませんが、出雲の熊野大社が神代と伝えられているのに対して、やや新しい感があります。

熊野本宮大社

出雲と紀伊の関係については、
”スサノオは海の彼方にある常世国からの来訪神とし、さらにスサノオの崇拝は紀伊の海人によって紀伊から出雲に運ばれ、出雲の東部から西部に広まったらしい。”(「出雲神話」(松前健))
のように、「紀伊⇒出雲」説が主張されています。

しかしながら、前回お話した日本書紀では、
”一書(第四)をみてみると、スサノヲ神がヤマタノオロチを退治した後、子の五十猛神が、大量に所持していた樹種を以て、国中の山々を青く茂らす為に、全国的な植樹事業を始めました。筑紫から始められた植樹は、国中を青山にすることに成功し、五十猛神はその功績が称えられて有功之神(いさをしのかみ)と御神名が仰がれ、紀伊國の鎮座する神様となりました。”(出雲大社・東京分詞HP「コラム その七○(神の木々 ~ 6 ~)」より)

とあり、スサノオの本拠が出雲とすれば、明らかに「出雲⇒紀伊」の流れです。

もう少し広い範囲の話としては、畿内に「出雲」の地名があることから、「畿内⇒出雲」との説が唱えられています。

たとえば、日本書紀の崇神天皇紀60年条に「出雲臣(いずものおみ)」が出てきます。
門脇禎二氏は、
”出自は大和国城上郡出雲村あるいは山城国愛宕郡出雲郷にあって、これらの畿内の地を本拠にして出雲に進出した。”(岩波日本古典文学大系『日本書紀』上 P251の注)
という通説を紹介したうえで、以下のとおり述べてます。

”出雲臣が大和国の出雲村に発したという説は、そもそも大和の地名で国名を負うもの(美濃・出雲・吉備・阿波・豊前など畿内・七道二四国名)のちの律令制下の諸国からの徴発民の住居より生じたという研究結果(直木孝次郎「国名を持つ大和の地名」)を無視している。・・逆に出雲から進出した結果に形成された。”(以上「古代出雲」(門脇禎二)P109-110)

つまり、「出雲⇒大和」の流れです。

ところで、初期大和王権の本拠地とされる纏向遺跡、箸墓古墳においては、古くから三輪山信仰があったと考えられています。

三輪山の西麓には、大物主大神を祭る大神(おおみわ)神社があります。

”大神神社は纒向・磐余一帯に勢力を持った出雲ノ神の一族が崇敬し、磐座祭祀が営まれたとされる日本でも古い神社の一つで、神奈備信仰様式をとった神聖な信仰の場であったと考えられる。大穴持命が国譲りの時に、己の和魂を八咫鏡に取り付けて、倭ノ大物主櫛甕玉命と名を称えて大御和の神奈備に鎮座した。これが三輪神社の創始である。”(『出雲国造神賀詞』)(Wikipedia「大神神社」より)

以上のように、出雲の神の一族が崇敬していたわけですから、「出雲⇒畿内(大和)」の流れです。

三輪山は磐座信仰で、山中に多くの磐座祭祀遺跡が残されています。禁足地であることもあって詳細は定かでありませんが、ふもとに山ノ神遺跡があります。

ここからは、素文鏡・勾玉・剣型鉄製品ほか、多くの遺物が出土しました。4世紀後半から6世紀前半ころまで、この場所で繰り返し祭祀が行われていたと推測されています。(桜井市立埋蔵文化財センター 第1回「三輪山西麓の磐座を訪ねて」より)

これに対して、出雲の遺跡は紀元前からのものが数多くあり、三輪山の遺跡よりはるかに古い歴史です。

こうしたことからも、やはり「出雲⇒畿内」という流れと考えるのが、自然でしょう。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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