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古事記・日本書紀のなかの史実 (38)~神生み㉓ 荒神谷遺跡がもたらしたインパクト

前回は、大和など畿内や紀伊にある出雲と関連する神社などは、出雲よりも新しく、したがって「出雲⇒畿内・紀伊」という流れではないか、という内容でした。また日本書記の記載からみても、そのように考えるのが自然という話でした。

ではなぜ、これまで長年にわたり「畿内・紀伊⇒出雲」が通説として唱えられてきたのでしょうか?

それは、古事記・日本書紀の神話の3分の1を占める出雲神話は、後世の史官による創作であることが当然のこととされてきたからです。これが数百年にわたる日本古代史の前提でした。ですから、中心は当然のことながら畿内であり、出雲から祭祀などが伝わるのはありえないと考えられてきたわけです。

ところがこの常識を根本からひっくり返す発見がありました。島根県出雲市斐川町で発掘された荒神谷遺跡です。

1984年 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しました。
ではひとつずつみてみましょう。引用元は「古代出雲」(門脇禎二)です。

【銅剣】
358本の中細形C類銅剣をどのように解釈するかは、なかなか困難な問題である。同時に、荒神谷遺跡の謎を解く重要な鍵が、この銅剣群にあることも確かである。
現状ではいくつかの仮定のうえに推論を重ねることになるが、同一型式の一括大量埋納という事実からは、製作工人が近畿または北部九州より来て、当地で製造したものという考え方がまず出てくる。搬入された銅鐸・銅矛群とは場所を異にして埋納されていたことも、右のように解釈すれば説明がつくかもしれない。
出雲の地でかりに製作されたとしても、そのことが即「出雲型」銅剣の生産ということにはならないであろう。だが山陰の各地に分布する中細形C類銅剣は、それぞれの地の農耕社会に、荒神谷遺跡の青銅器群を所有する集団から分配された可能性も想定できよう。

当地製造か製品搬入かのいずれをとるにしても、このような各種青銅器を大量所有することは並みの農耕社会では成しえないことである。このことは、北部九州の青銅器生産センターとして知られる福岡県春日丘陵の遺跡群や、銅鐸・銅戈を製作していた大阪府東奈良遺跡などの実態に照らしてあきらかであろう。問題は、そうした青銅器の大量所持を可能にした歴史的条件と集団の歴史的な性格である(同書P46、
出典「銅鐸・銅剣・銅矛と古代出雲」(島根大学教授 田中義昭)「高校社会科教育ぶっくれっと」五号 三省堂 1986年5月 P24-25)。”

銅剣の製作について、近畿または北部九州から来た工人が、出雲で製作したとの考察をしています。ここで北部九州はわかりますが、近畿というのはどうでしょうか? 青銅器の分布をみてみましょう。

青銅器祭祀分布

中細型銅剣C型は出雲型と呼ばれ、出雲を中心とした地域に分布してます。銅剣は平型銅が瀬戸内地域に分布してますが、東限は淡路島であり畿内には分布してません。

一方九州は、図では銅矛祭祀圏となってますが、中細形銅剣が数多く出土してます。a類は中期前半、b類は中期前半~後半、c類は中期後半~末と推定されてます(「弥生時代の青銅器生産地 :九州」(後藤直)より)。

つまり出雲型とされるc類に先行してa類、b類が九州にあったということです。このことから、出雲型c類は九州から伝搬したことが推測されます。

実際、同書では、次の記載があります。

”荒神谷遺跡の銅剣は、佐賀県神埼郡千代田町姉遺跡出土の銅矛の鋳型といわれてきたもので製作されたという見解が出た。”(P134,出典「青銅器の仿製と創作」(柳田康雄)『図説 発掘が語る日本史』6 1986年)


以上のとおり、荒神谷遺跡の銅剣は、畿内ではなく北部九州との強い関連が推測されます。

【銅鐸】
”最古段階と古段階の製作品であるから、当地が弥生Ⅰ期末からⅡ期には銅鐸分布圏の一角をなしていたことは明瞭である。しかも一号鐸のような前例のない銅鐸が含まれていることや最古式の一号鐸が存在することからすれば、当地方がたんに銅鐸分布圏の外域に位置していたというだけではなく、相対的に独自性をもった地域であったことが考えられよう。北部九州で生産されたことが確実な福田型邪視紋鐸の存在も、こうした独自性と関連があるのではなかろうか。”(同書P45)

銅鐸というとすぐに畿内を思い浮かべますが、ことはそう簡単ではありません。最古式の銅鐸となると、日本での銅鐸発祥との関連がうかがわれます。日本でどの地域から銅鐸が広まったのは、よくわかっていませんが、最古式の銅鐸がどの地域に分布しているかがわかればヒントになりますので、みてみましょう。

最古銅鐸分布


銅鐸は、荒神谷遺跡のほかは、兵庫・淡路島・福井・岐阜・三重、銅鐸鋳型は、京都・愛知に分布してますが、奈良・大阪には、分布してません。こういうことから、日本での銅鐸の発祥は、出雲・北陸・淡路島あたりではないか、という考察は、以前いたしました。

なお、福田型邪視紋鐸とは、伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)のことです。これと同じ鋳型で作られたと考えられる銅鐸が、吉野ケ里遺跡で発見されました。さらに伝伯耆国(ほうきこく、現鳥取県)出土銅鐸も、北部九州で作られたとされています。

こうしたことを考え合わせると、銅鐸も北部九州から伝搬した可能性が出てきす。

【銅矛】
”銅矛は北部九州からの移入品であろう。一部に中細型を含むことからは、銅鐸同様に時期を追ってもち込まれたことが考えられる。すなわち中細型の受け入れにつづいて中広型が伝えられるという具合である。また中広型にみとめられた綾杉状の研ぎ分けは、佐賀県検見谷(けみだに)遺跡発見の中広型銅矛をはじめとして二十例近くが知られているが、いずれも北部九州の地においてである。これらのことから弥生Ⅲ~Ⅳ期ごろには出雲地方は北部九州とも交流していて、銅矛圏の東限をなしていたといえる。”(同書P45-46)

銅矛祭祀の中心は北部九州ですから、出雲の銅矛も北部九州から伝搬したのは確実です。

以上、荒神谷遺跡の銅剣・銅矛は、畿内との関連はなく、銅鐸についても少なくとも最古式の銅鐸でみる限り、大阪・奈良地域との関連は見いだせません。むしろ北部九州と強い関連があることがわかります。

こうしたことを考え合わせると、出雲のスサノオ信仰は畿内より古く、「出雲→畿内」の流れと考えるのが自然でしょう。

なお北部九州との関連については、次回以降お話しします。

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!




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荒神谷遺跡の銅剣・銅矛

>以上、荒神谷遺跡の銅剣・銅矛は、畿内との関連はなく、銅鐸についても少なくとも最古式の銅鐸でみる限り、大阪・奈良地域との関連は見いだせません。むしろ北部九州と強い関連があることがわかります。

〇いつもながら分かりやすく説得力がありますね。
 荒神谷遺跡の銅剣・銅矛の謎が解明された感じで、たいへん参考になります。

 なお、拙ブログ記事ですが、青松光晴様の過去記事(大宰府関係)を今回引用させていただきました。
 草々

Re: 荒神谷遺跡の銅剣・銅矛

レインボーさん

いつもありがとうございます。

荒神谷遺跡は、古代史学界に衝撃を与えました。ただし、遺跡を素直に解釈すればいいのですが、通説派の学者のなかにはまだ自説にこだわる方も多く、困ったものですね。

過去記事引用の件、了解です。
大宰府については、調査が進んでおらず、謎が多いままです。
最新の報告では、現在の条坊の下に古い条坊遺構が発掘され始めており、しかもそれが現条坊と位置がづれているとのことです。たいへん興味深い報告です。
いずれ考察をまとめたいと思っております。

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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