古事記・日本書紀のなかの史実 (39)~神生み㉔ スサノオの出自
スサノオの本拠について、出雲と畿内の関係含めてみてきました。
スサノオの本拠が出雲であることが明らかですが、ではスサノオはどこからやってきたのでしょうか?
スサノオというと、日本書紀の記載から、新羅との関係が思い浮かびます。
誓約でアマテラスに勝利したスサノオは、調子に乗って暴虐の限りを尽くした結果、高天原から追放され、出雲の国に降り立ちます。日本書記の一書第四では、その途中、新羅に立ち寄ったとされています。
”高天原を追放されたスサノオは、”その子イソタケルをひきいて、新羅の国に降られて、曾尸茂梨(ソシモリ、ソホル即ち都の意か)のところにおいでになった。そこで不服の言葉をいわれて、「この地には私はいたくないのだ」と。ついで土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。”(「日本書紀」(宇治谷孟)より)
一般的には、高天原とは天上界であり、そこから地上界である出雲に降りてきたと解されています。
こうした従来の解釈に異議を唱えたのが、古田武彦氏です。
古田氏は、古事記中の「上る」「下る」の用法を洗い出した結果、一定の法則があることを指摘しました。たとえば、神武天皇が九州日向から吉備を経由して大和へ攻め入るいわゆる「神武東征神話」のなかの記載について、次のように述べてます。
”「故(かれ)、その国(吉備の高島宮)より上り幸(い)でし時、・・・故、其の国より上り行きし時、浪速(なみはや)の渡(わたり)を経て、青雲の白肩(しらかた)の津に泊る。」(古事記「神武記」)
神武東征のとき、吉備→難波の行路で、二回も「上る」の表記が出てくる。これは近畿の方を都、つまり原点とした表記だ。仲哀記に、「是にオキナガタラシヒメ、倭に環り上りし時、・・・」とあるのと同じだ。
つまり、”地上のA点から地上のB点への移動”について、「上る」の語が使用されているのである(これは現代の汽車で首都たる東京中心に、「上り」「下り」を使うのと同じだ)。このような使用例から見ると、「天降る」とあっても、これは”天国から天国以外のX地点に移動する”それを意味するだけだ。”(「盗まれた神話 記・紀の秘密」(古田武彦)P358-359より)
そして、一般的に天上界のこととされている「高天原」とは地上界にある「天(あま)国」として、その領域について考察しています。
ひとつは、古事記の国生み神話からです。
イザナギ・イザナミが生んだ8つのクニである「大八嶋國」と[六嶋」に「亦の名」があることは、前にお話ししました。その「亦の名」について、「天」のつくクニが、大八嶋で4つ、六嶋で3つあります。古田氏はこれを、「天(海人)族」の古い時代の支配領域ではないか、と推測してます。
その範囲は、大八嶋では、隠岐の島、壱岐、津島となります。これは次の図をみれば明らかなように、北部九州~出雲の日本海にある島々です。
なお、「天御虚空豊秋津根別(大倭豐秋津嶋)」については、他の一連の名前とは別格の荘重さが備わっていることから、あとから挿入された「新名」ではないか、としてます。
また、六嶋の天一根、天之忍男、天両屋は、通説ではそれぞれ大分県姫島、五島列島、男女群島(五島列島)とされていますが、断定できないため省きました。

以上のとおり、天国の領域は、北部九州~出雲にかけての日本海の島々に限られることがわかります。またそれは、天津神(とその子や孫たち)の行動範囲とも整合していると指摘しています。
”(1)イザナギ神は、出雲にあるといわれる黄泉の国にいった。そして筑紫の日向の橘の小戸(博多湾岸、西辺)に帰ってきた。そしてここで、”ミソギ”をして天照や月読やスサノオらを生んだ。
(2)天照は筑紫の博多湾岸(姪の浜付近)で誕生したあと、「天国」にひきこもり、そこから出たことがない。
(3)スサノオは、はじめ新羅に行き、のち出雲へ行った。
(4)天照の子、天の忍穂耳(オシホミミ)命は、「天国」から出たことがない。
(5)天照の孫、ニニギは、「天国」を出て、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ、糸島郡、高祖山連山)に来て、この筑紫で定住した。
(6)天鳥船神・建御雷(タケミカズチ)神は、天照の使者として、「天国」から出雲の伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)に降り到った(「国譲り」の交渉)
このように、天ツ神たちの天国からの行動は、筑紫・出雲・韓地(新羅国)の、三地域に限られている。
しかも、これら三地域に出向くさい、いずれも途中の中間地域が書かれていない。だから、「天国」は、この三地域に共に接しているのだ。すなわち、この三地域に囲まれた、その内部にあるのだ。ーそれはとりもなおさず、右の「亦の名」古地図の示す「天の・・・」の島々の分布領域に一致する。これが、この「天国古地図」が『記・紀』の神話内容と完全に一致していることを証明している”(同書P370-371)。
ではこの三地域に囲まれた「天国」は、どこのことを指しているのでしょうか?
図でみてみましょう。

図のとおり、天国とは、対馬・壱岐・沖ノ島を含んだ領域にあると推測できます。
古田氏は同書において、六嶋のひとつである両児嶋(亦の名を「天両屋」)を沖ノ島として、そこから沖ノ島をアマテラスの本拠地としてます。たしかに沖ノ島は2017年に世文化遺産に登録されるなど、歴史的にたいへん貴重な島です。しかしながら沖ノ島祭祀遺跡が本格的に開始されるのは、4世紀後半の岩上祭祀からです。
アマテラス神話は描写が素朴で原初的であることからも、時代は紀元前にさかのぼると推測されます。ですから、アマテラスの本拠すなわち「天国=沖ノ島」は成立しないと考えます。
私としては以前お話ししたとおり、対馬・壱岐を中心とした地域ではないか、と推測してます。
ところで、「高天原」と「天国」は、同じものでしょうか。
古田氏は、次のように述べてます。
”「高天原」という表現は、そこがあたかも”壮大な領域の高原”であるかのような錯覚を与えてきたのではあるまいか。この「原」は”野原”の意味ではない。「前原」「白木原」「春日原」などの「バル」なのである。つまり筑紫一帯の用語で集落の意だ。
「高」は敬称に類する。竪穴・横穴住居の多かった時代にあって、地上の住民が、「高 -- 」と呼ばれたとも考えられる。したがって「高天原」は”「天国」の集落”を意味する言葉なのである。”(同書P371-372)
「前原(まえばる)」「白木原(しらきばる)」「春日原(かすがばる)は、今も福岡県にある地名です。普通に読めば「はら」ですが、なぜか地元では「ばる」と読みます。
「天原」=「天国」の集落
であり、その敬称が「高天原」というわけです。
実際、壱岐には、天ヶ原、高野原等の地名が残っており、関連性をうかがわせます。天ケ原には「天ケ原遺跡」があり、中広型銅矛3本が出土してます。弥生時代には祭祀の場所であったことがわかります。
もちろん天ヶ原や高野原が、そのまま「高天原」であるということではありません。あくまで高天原にある地名のひとつであったということでしょう。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
スサノオの本拠が出雲であることが明らかですが、ではスサノオはどこからやってきたのでしょうか?
スサノオというと、日本書紀の記載から、新羅との関係が思い浮かびます。
誓約でアマテラスに勝利したスサノオは、調子に乗って暴虐の限りを尽くした結果、高天原から追放され、出雲の国に降り立ちます。日本書記の一書第四では、その途中、新羅に立ち寄ったとされています。
”高天原を追放されたスサノオは、”その子イソタケルをひきいて、新羅の国に降られて、曾尸茂梨(ソシモリ、ソホル即ち都の意か)のところにおいでになった。そこで不服の言葉をいわれて、「この地には私はいたくないのだ」と。ついで土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。”(「日本書紀」(宇治谷孟)より)
一般的には、高天原とは天上界であり、そこから地上界である出雲に降りてきたと解されています。
こうした従来の解釈に異議を唱えたのが、古田武彦氏です。
古田氏は、古事記中の「上る」「下る」の用法を洗い出した結果、一定の法則があることを指摘しました。たとえば、神武天皇が九州日向から吉備を経由して大和へ攻め入るいわゆる「神武東征神話」のなかの記載について、次のように述べてます。
”「故(かれ)、その国(吉備の高島宮)より上り幸(い)でし時、・・・故、其の国より上り行きし時、浪速(なみはや)の渡(わたり)を経て、青雲の白肩(しらかた)の津に泊る。」(古事記「神武記」)
神武東征のとき、吉備→難波の行路で、二回も「上る」の表記が出てくる。これは近畿の方を都、つまり原点とした表記だ。仲哀記に、「是にオキナガタラシヒメ、倭に環り上りし時、・・・」とあるのと同じだ。
つまり、”地上のA点から地上のB点への移動”について、「上る」の語が使用されているのである(これは現代の汽車で首都たる東京中心に、「上り」「下り」を使うのと同じだ)。このような使用例から見ると、「天降る」とあっても、これは”天国から天国以外のX地点に移動する”それを意味するだけだ。”(「盗まれた神話 記・紀の秘密」(古田武彦)P358-359より)
そして、一般的に天上界のこととされている「高天原」とは地上界にある「天(あま)国」として、その領域について考察しています。
ひとつは、古事記の国生み神話からです。
イザナギ・イザナミが生んだ8つのクニである「大八嶋國」と[六嶋」に「亦の名」があることは、前にお話ししました。その「亦の名」について、「天」のつくクニが、大八嶋で4つ、六嶋で3つあります。古田氏はこれを、「天(海人)族」の古い時代の支配領域ではないか、と推測してます。
その範囲は、大八嶋では、隠岐の島、壱岐、津島となります。これは次の図をみれば明らかなように、北部九州~出雲の日本海にある島々です。
なお、「天御虚空豊秋津根別(大倭豐秋津嶋)」については、他の一連の名前とは別格の荘重さが備わっていることから、あとから挿入された「新名」ではないか、としてます。
また、六嶋の天一根、天之忍男、天両屋は、通説ではそれぞれ大分県姫島、五島列島、男女群島(五島列島)とされていますが、断定できないため省きました。

以上のとおり、天国の領域は、北部九州~出雲にかけての日本海の島々に限られることがわかります。またそれは、天津神(とその子や孫たち)の行動範囲とも整合していると指摘しています。
”(1)イザナギ神は、出雲にあるといわれる黄泉の国にいった。そして筑紫の日向の橘の小戸(博多湾岸、西辺)に帰ってきた。そしてここで、”ミソギ”をして天照や月読やスサノオらを生んだ。
(2)天照は筑紫の博多湾岸(姪の浜付近)で誕生したあと、「天国」にひきこもり、そこから出たことがない。
(3)スサノオは、はじめ新羅に行き、のち出雲へ行った。
(4)天照の子、天の忍穂耳(オシホミミ)命は、「天国」から出たことがない。
(5)天照の孫、ニニギは、「天国」を出て、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ、糸島郡、高祖山連山)に来て、この筑紫で定住した。
(6)天鳥船神・建御雷(タケミカズチ)神は、天照の使者として、「天国」から出雲の伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)に降り到った(「国譲り」の交渉)
このように、天ツ神たちの天国からの行動は、筑紫・出雲・韓地(新羅国)の、三地域に限られている。
しかも、これら三地域に出向くさい、いずれも途中の中間地域が書かれていない。だから、「天国」は、この三地域に共に接しているのだ。すなわち、この三地域に囲まれた、その内部にあるのだ。ーそれはとりもなおさず、右の「亦の名」古地図の示す「天の・・・」の島々の分布領域に一致する。これが、この「天国古地図」が『記・紀』の神話内容と完全に一致していることを証明している”(同書P370-371)。
ではこの三地域に囲まれた「天国」は、どこのことを指しているのでしょうか?
図でみてみましょう。

図のとおり、天国とは、対馬・壱岐・沖ノ島を含んだ領域にあると推測できます。
古田氏は同書において、六嶋のひとつである両児嶋(亦の名を「天両屋」)を沖ノ島として、そこから沖ノ島をアマテラスの本拠地としてます。たしかに沖ノ島は2017年に世文化遺産に登録されるなど、歴史的にたいへん貴重な島です。しかしながら沖ノ島祭祀遺跡が本格的に開始されるのは、4世紀後半の岩上祭祀からです。
アマテラス神話は描写が素朴で原初的であることからも、時代は紀元前にさかのぼると推測されます。ですから、アマテラスの本拠すなわち「天国=沖ノ島」は成立しないと考えます。
私としては以前お話ししたとおり、対馬・壱岐を中心とした地域ではないか、と推測してます。
ところで、「高天原」と「天国」は、同じものでしょうか。
古田氏は、次のように述べてます。
”「高天原」という表現は、そこがあたかも”壮大な領域の高原”であるかのような錯覚を与えてきたのではあるまいか。この「原」は”野原”の意味ではない。「前原」「白木原」「春日原」などの「バル」なのである。つまり筑紫一帯の用語で集落の意だ。
「高」は敬称に類する。竪穴・横穴住居の多かった時代にあって、地上の住民が、「高 -- 」と呼ばれたとも考えられる。したがって「高天原」は”「天国」の集落”を意味する言葉なのである。”(同書P371-372)
「前原(まえばる)」「白木原(しらきばる)」「春日原(かすがばる)は、今も福岡県にある地名です。普通に読めば「はら」ですが、なぜか地元では「ばる」と読みます。
「天原」=「天国」の集落
であり、その敬称が「高天原」というわけです。
実際、壱岐には、天ヶ原、高野原等の地名が残っており、関連性をうかがわせます。天ケ原には「天ケ原遺跡」があり、中広型銅矛3本が出土してます。弥生時代には祭祀の場所であったことがわかります。
もちろん天ヶ原や高野原が、そのまま「高天原」であるということではありません。あくまで高天原にある地名のひとつであったということでしょう。
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