新唐書日本伝を読む その1 ~ 天御中主神から神武天皇までの間にある謎の時間の流れ
前回まで、旧唐書の倭国伝と日本国伝を見てきました。今回から、新唐書日本伝に入ります。
なぜ唐書が新旧二つに分かれているかですが、旧唐書は唐末から五代十国時代(907-960年)の戦乱の影響で、後半部分が資料不足で不備が大きかったため、それらを補うため北宋時代(1060年)に作られたというわけです。
そして、日本については、旧唐書にあった倭国伝がなくなり日本伝のみとなってます。
【現代訳】
日本は古の倭奴国(いどこく)である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは歩いて東西は五ヶ月の行程、南北は三ヶ月の行程である。
国都には城郭がなく、材木を並べて木柵とし、草で屋根をふいている。周辺には五十余りの小島があり、それぞれ勝手に国と号し、日本国に臣下として服従している。王は統轄者を一人置いて、諸地方を監督させている。
国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。
【解説】
冒頭
「日本は古の倭奴国(いどこく)である」
とあります。前回までの旧唐書を読まれた方には、おなじみですね。
旧唐書倭国伝に
「倭奴国→倭国」
旧唐書日本国伝に
「倭国→日本国」
とあり、それを合わせた表現です。
つまり
「倭奴国→倭国→日本国」
というわけです。
そして、この日本国とは明らかに大和朝廷のことです。となると、前回までの繰り返しになりますが、倭奴国が九州博多湾岸にあったことは、邪馬台国畿内説論者も異論がないのですから、当然の帰結として、
「大和朝廷の前身は、九州博多湾岸にあった。」
ことになります。
ここから、興味深い記載が出てきます。
「初代の国王天御中主(あめのみなかぬし)から、彦瀲(なぎさ)至るにまですべて三十二代」
とあります。
天御中主とは、古事記、日本書紀に出てくる天地開闢(てんちかいびゃく)の神です。そこから天照大神、さらに神武天皇へとつながるわけです。その系譜については、
「日本の神々の系譜とは・・・」(2015/3/18号)
でお話ししましたが、
このようになります(一部加筆してあります。)。
さてこの系譜を見て、不思議に思いませんでしょうか?。
天御中主から神武天皇の父親である彦瀲まで、7代です。とても新唐書日本伝にある32代もありません。
これはどうしたことでしょうか?。どちらかがいいかげんなことを記載しているのでしょうか?。
私は、この謎を解くカギは、火遠理命(ほおりのみこと)にあるのではないか、という仮説を立てています。火遠理命とは、筑紫の日向に天孫降臨した瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の子供であり、かつあの有名な「海彦山彦神話」に出てくる山彦です。
実は古事記に、
「火遠理命の代は、580年に及んだ。」
との記載があります。一代で580年とはあまりにも非現実的な話であるため、一般には、これを単なる神話の話としてしか解釈していません。
しかしながら、神話の話にしては、580年というのは、やけに具体的な数字です。ここには何か意味があるのではないでしょうか?。
ひとつの考え方として、襲名制度ではないか、というものです。
つまり火遠理命の家系では、家を継ぐ人が皆同じ火遠理命という名前だった、ということです。襲名制度は昔からあり、現代でも歌舞伎役者の家系では、たとえば市川団十郎を代々引き継ぎます。その制度が当時あったとしても、何の不思議もありません。
この考え方で計算すれば、一代20年として、
580÷20=29代です。
以前のブログでお話しした二倍年暦説(一年に二回歳を数える)によれば、
580÷2÷20=15代
となります。
二倍年暦説について詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その4 ~ 倭の風俗 倭人は年に二回歳をとっていた!?」(2015/5/6号)
を参照ください。
さらに、系譜では省略しましたが、古事記によれば、天御中主といざなみ・いざなみの間には様々な神が登場しており、それらを神世七代としています。
これらをたしあわせれば32代にもなりうるわけで、がぜん32代という記載にリアリティが出てきます。
もちろんだからと言って、32代だと断定はできません。実際、後年の宋史日本伝には、具体的に神名まで挙げたうえで、23代との記載があります。
いずれにしろ、これだけの資料で確定はできませんが、少なくとも、天御中主から神武天皇の父親である彦瀲までは、20~30数代を経ているのではないか、と推定できます。
となると、神武天皇の生きていた年代がわかれば、逆算して、国譲りや天孫降臨神話すなわち天孫族が九州北部に進出した時代も推定できます。そしてその推定年代が、遺跡などの考古学的成果やその他科学的データと一致すれば、仮説が検証できます。
余談ですが、火遠理命すなわち山彦は、浦島太郎伝説のモデルとなった人物である、との説もあります。
「海彦山彦神話」は、
"兄の大切な釣り針を探しに行った山彦が、海の神わたつみの宮へ向かいます。そこでわたつみの娘豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれ、楽しく暮らします。
豊玉姫の協力で釣り針を取り戻したばかりか、海神から強力な力を授かり、地上へ戻ってから、兄の海彦を屈服させた。"
という話しです。
確かに似ているたころはあります。さらに山彦の代で580年というのも、浦島太郎が陸に戻ってきたら長い年月がたっていた、という話のヒントになったかもしれませんね。
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なぜ唐書が新旧二つに分かれているかですが、旧唐書は唐末から五代十国時代(907-960年)の戦乱の影響で、後半部分が資料不足で不備が大きかったため、それらを補うため北宋時代(1060年)に作られたというわけです。
そして、日本については、旧唐書にあった倭国伝がなくなり日本伝のみとなってます。
【現代訳】
日本は古の倭奴国(いどこく)である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは歩いて東西は五ヶ月の行程、南北は三ヶ月の行程である。
国都には城郭がなく、材木を並べて木柵とし、草で屋根をふいている。周辺には五十余りの小島があり、それぞれ勝手に国と号し、日本国に臣下として服従している。王は統轄者を一人置いて、諸地方を監督させている。
国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。
【解説】
冒頭
「日本は古の倭奴国(いどこく)である」
とあります。前回までの旧唐書を読まれた方には、おなじみですね。
旧唐書倭国伝に
「倭奴国→倭国」
旧唐書日本国伝に
「倭国→日本国」
とあり、それを合わせた表現です。
つまり
「倭奴国→倭国→日本国」
というわけです。
そして、この日本国とは明らかに大和朝廷のことです。となると、前回までの繰り返しになりますが、倭奴国が九州博多湾岸にあったことは、邪馬台国畿内説論者も異論がないのですから、当然の帰結として、
「大和朝廷の前身は、九州博多湾岸にあった。」
ことになります。
ここから、興味深い記載が出てきます。
「初代の国王天御中主(あめのみなかぬし)から、彦瀲(なぎさ)至るにまですべて三十二代」
とあります。
天御中主とは、古事記、日本書紀に出てくる天地開闢(てんちかいびゃく)の神です。そこから天照大神、さらに神武天皇へとつながるわけです。その系譜については、
「日本の神々の系譜とは・・・」(2015/3/18号)
でお話ししましたが、
このようになります(一部加筆してあります。)。

さてこの系譜を見て、不思議に思いませんでしょうか?。
天御中主から神武天皇の父親である彦瀲まで、7代です。とても新唐書日本伝にある32代もありません。
これはどうしたことでしょうか?。どちらかがいいかげんなことを記載しているのでしょうか?。
私は、この謎を解くカギは、火遠理命(ほおりのみこと)にあるのではないか、という仮説を立てています。火遠理命とは、筑紫の日向に天孫降臨した瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の子供であり、かつあの有名な「海彦山彦神話」に出てくる山彦です。
実は古事記に、
「火遠理命の代は、580年に及んだ。」
との記載があります。一代で580年とはあまりにも非現実的な話であるため、一般には、これを単なる神話の話としてしか解釈していません。
しかしながら、神話の話にしては、580年というのは、やけに具体的な数字です。ここには何か意味があるのではないでしょうか?。
ひとつの考え方として、襲名制度ではないか、というものです。
つまり火遠理命の家系では、家を継ぐ人が皆同じ火遠理命という名前だった、ということです。襲名制度は昔からあり、現代でも歌舞伎役者の家系では、たとえば市川団十郎を代々引き継ぎます。その制度が当時あったとしても、何の不思議もありません。
この考え方で計算すれば、一代20年として、
580÷20=29代です。
以前のブログでお話しした二倍年暦説(一年に二回歳を数える)によれば、
580÷2÷20=15代
となります。
二倍年暦説について詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その4 ~ 倭の風俗 倭人は年に二回歳をとっていた!?」(2015/5/6号)
を参照ください。
さらに、系譜では省略しましたが、古事記によれば、天御中主といざなみ・いざなみの間には様々な神が登場しており、それらを神世七代としています。
これらをたしあわせれば32代にもなりうるわけで、がぜん32代という記載にリアリティが出てきます。
もちろんだからと言って、32代だと断定はできません。実際、後年の宋史日本伝には、具体的に神名まで挙げたうえで、23代との記載があります。
いずれにしろ、これだけの資料で確定はできませんが、少なくとも、天御中主から神武天皇の父親である彦瀲までは、20~30数代を経ているのではないか、と推定できます。
となると、神武天皇の生きていた年代がわかれば、逆算して、国譲りや天孫降臨神話すなわち天孫族が九州北部に進出した時代も推定できます。そしてその推定年代が、遺跡などの考古学的成果やその他科学的データと一致すれば、仮説が検証できます。
余談ですが、火遠理命すなわち山彦は、浦島太郎伝説のモデルとなった人物である、との説もあります。
「海彦山彦神話」は、
"兄の大切な釣り針を探しに行った山彦が、海の神わたつみの宮へ向かいます。そこでわたつみの娘豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれ、楽しく暮らします。
豊玉姫の協力で釣り針を取り戻したばかりか、海神から強力な力を授かり、地上へ戻ってから、兄の海彦を屈服させた。"
という話しです。
確かに似ているたころはあります。さらに山彦の代で580年というのも、浦島太郎が陸に戻ってきたら長い年月がたっていた、という話のヒントになったかもしれませんね。
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