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古事記・日本書紀のなかの史実 (56) ~ヤマタノオロチとの戦い

 いよいよ、スサノオとヤマタノオロチとの戦いです。

”スサノオは、クシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチ退治を請け負った。
まず、スサノオは神通力でクシナダヒメの形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。そして、アシナヅチとテナヅチに、回繰り返して醸造した強い酒(八塩折之酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。”

準備をして待っているとヤマタノオロチがやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。ヤマタノオロチが酔って寝てしまうと、スサノオは十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀をアマテラスに献上した。これが「草那藝之大刀(くさなぎのたち)」(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))である。”


ヤマタノオロチ退治を請け負ったスサノオは、クシナダヒメを櫛に変えて自分の髪に挿します。クシナダヒメが、「櫛稲田姫」とされる所以です。
スサノオは8回繰り返し醸造した強い酒を作り、8つの方角にそれぞれ酒を満たした酒桶を置きます。そこにヤマタノオロチがやってきて、酒を飲んだため寝てしまい、そこをスサノオが十拳剣で襲い、殺してしまいます。

騙されて強い酒を飲み酔って殺されるとは、酒好きが災いしているようで、なんとも間抜けなように聞こえます。
しかしながら書紀の第二の一書には、やってきた大蛇に対して、
「あなたは恐れ多い神様です。おもてなし申し上げます。」といって酒を八つの口毎に入れられ、蛇は飲んで眠ってしまい、そこをスサノオが斬った。」
と記載されています。

酒は神聖な神の祭りに饗するものであったわけで、この場面は、河の神の怒りを鎮めるための儀式であり、スサノオはその祭りを執り行った際に、強力な酒を河の神(ヤマタノオロチ)に供し酔わせたという解釈もできます。

さて、スサノオはヤマタノオロチを見事に十拳剣(とつかのつるぎ)で切り刻みます。

ここで、十拳剣ですが、

”様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされる。
記紀ではアマテラスとスサノオの誓約の場面などで記述される。ここでは固有名詞の「十束剣」とだけ記述される(古事記では、スサノオが持っていた十拳剣を物実としてアマテラスが口に含みかみ砕き息から3柱の女神(宗像三女神)を産んでいる)。


ヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」。“羽々”とは“大蛇”の意味)で、ヤマタノオロチの尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けたとしている。
この剣は石上布都魂神社に祭られ崇神天皇の代に石上神宮に遷された。石上神宮ではこの剣を布都斯魂剣(
ふつしみたまのつるぎ)
と呼び、本殿内陣に奉安され祭られている。”(Wikipedia「十束剣」より)

ここから剣の名前がいくつか出てきて、混乱しそうです。
まずスサノオが持っていた剣は「十拳剣(とつかのつるぎ」で、別名「天羽々斬(あめのはばきり)」ということです。

同じつかのつるぎ(十束剣)は、前にアマテラスとスサノオの誓約の場面で出てきました。
他にも、多くの場面で出てきます。


十束剣、記紀登場場面


石上神宮に神剣が納められていると聞きますが、実は2種類あるということです。
つまり、
A.布都斯魂剣(ふつしみたまのつるぎ)、別名(天羽々斬剣)
B.布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)
です。

ややこしいですね。

Aの布都斯魂剣(天羽々斬剣)が、今回の話の剣です。
一方のBの布都御魂剣は、のちの葦原の中つ国平定(国譲り)の際に出てきます。さらに神武天皇の東征にも登場します。

◆布都斯魂剣
”現在、石上神宮では天羽々斬剣とされる鉄刀が、
布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とともに本殿内陣に奉安され祭られている。これは明治11年(1878年)の石上神宮の社殿建造のための禁足地発掘の際、出土した全長120cm位の片刃の刀である。本殿内陣には布都御魂剣とこの片刃鉄刀の他に、同じ明治11年の発掘で出土した全長60cm位の両刃の鉄剣も奉安され祭られているが、片刃鉄刀の方を天羽々斬剣としている。
石上布都魂神社布都明神を祀っていたが、明治時代に祭神を素戔嗚尊に改めた。 鹿島神宮にも、「十握剣」とされる直刀(国宝)が納められている。”(Wikipedia「天羽々斬」より)

◆布都御魂剣
”建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。

神武の治世にあっては、物部氏、穂積氏らの祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮に移され、御神体となる。同社の祭神である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、布都御魂の霊とされる。”(Wikipedia「布都御魂(ふつのみたま)」より)

いずれの剣も石上神宮に移されますが、興味深いのは、
布都魂剣もともとは岡山県赤磐市にある石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)にあったとされていることです。

”「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀、旧事記、神社啓蒙天孫本記、古語拾遺等から「曰く、この数書以て考ふるに、上古素盞嗚尊、大蛇を断の剣は当社に在る事明らかなり、その後、崇神天皇の御宇大和国山辺郡に移し奉るとあれども、当社を廃されしと見えず。(以下略)」”(岡山県神社庁 「石上布都魂神社」由緒より)

由緒あるこの神剣が吉備に納められていたということは、出雲と吉備との間に深い関係があったことになります。しかも当時は吉備がかなりの勢力をもっていたということでしょう。
実際、神武天皇の東征の際には、畿内に侵入する前に吉備国で過ごしています。こうしたことから、奈良県の石上神宮は吉備に淵源をもつのではないか、ということも推察されます。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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