古事記・日本書紀のなかの史実 (57) ~草薙の剣
前回は、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣、十拳剣(とつかのつるぎ)についてでした。
もうひとつ重要な剣があります。
今一度、その描写を確認しましょう。
”準備をして待っているとヤマタノオロチがやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。ヤマタノオロチが酔って寝てしまうと、スサノオは十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀をアマテラスに献上した。これが「草那藝之大刀(くさなぎのたち)」(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))である。”
ヤマタノオロチの尾から出てきた剣、これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)別名あめのむらくものたちです。
草薙剣は、十拳剣より重要といえます。なぜなら、この太刀をアマテラスに献上しており、三種の神器の一つだからです。そしてその後、天孫降臨・ヤマトタケルの東征など、さまざまな重要な場面に登場します。


三種の神器の一つですが、実は現在見たことのある人はおらず、天皇でさえ見たことがないといわれています。
”綱吉時代に熱田神宮の改修工事があった時、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4~5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。天野信景(名古屋藩士、国学者)の随筆『塩尻』によれば、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたという。
梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英(1671-1736年)の『玉籤集』裏書にある記載は、明治31年の『神器考証』(栗田寛著)や『三種の神器の考古学的検討』(後藤守一著)で、世に知られるようになった。
上述の著作によれば、神剣が祀られた土用殿内部は雲霧がたちこめていた。木製の櫃(長さ五尺)を見つけてを開けると、石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、その上に布に包まれた剣があった。
箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵で全てが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチメートル)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から6寸(およそ18センチメートル)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。
この証言(記述)が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣となる。
一方で、後藤守一は、(皇国史観の束縛がなくなった)太平洋戦争終戦翌年(1946年)に明治大学専門部地理歴史科(夜学)の講義で、神官が盗み見た剣は青黒かったとの伝承を紹介し、それが事実なら、赤く錆びる鉄製でなくおそらく青銅製で、弥生時代の九州文化圏に関連する可能性があるとの推測を述べた(聴講した考古学者大塚初重による回想)。
なお神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている。”(Wikipedia「天叢雲剣」より)
以上からは、草薙剣は鉄製ではなく、青銅製の可能性が高いですね。もちろんこの剣が、本物であればの話ですが・・・
さてここで、ここで大きなポイントがあります。
十握剣の刃が草薙剣(くさなぎのつるぎ)に当たった際、刃が欠けたということです。つまり十握剣よりも草薙剣のほうが、強い剣だったということになります。
それほどまでに強い剣であればこそ、スサノオは草薙剣を高天原のアマテラスに献上したのでしょう。
これはよくよく考えると、不思議な話です。
普通であれば、征服者(スサノオ)の刀は強靭で、被征服者(ヤマタノオロチ)のもつ刀をいとも簡単に打ち砕いた、という描写にするでしょう。
このことは、征服者(スサノオ)の持っていた武器より、被征服者(ヤマタノオロチ)の持っていた武器のほうが、性能が優れていた、つまり文化的に上であったことを象徴しているともいえます。
さらにまた草薙剣は、のちに三種の神器になってます。被征服者の剣を、わざわざ自らの神宝にするものでしょうか?
普通の感覚であればありえないと考えますが・・・
なぜそうしたのか?
それは古事記・日本書紀編纂時において、もともとの出雲の支配者のほうが、渡来してきた自分たちより文化的に上であったという認識が一般的だった、ということを示しているのではないでしょうか? その霊力のある神剣をありがたくいただいて、自分たちの神宝にした、ということの表れとの見方も可能ですね。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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もうひとつ重要な剣があります。
今一度、その描写を確認しましょう。
”準備をして待っているとヤマタノオロチがやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。ヤマタノオロチが酔って寝てしまうと、スサノオは十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀をアマテラスに献上した。これが「草那藝之大刀(くさなぎのたち)」(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))である。”
ヤマタノオロチの尾から出てきた剣、これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)別名あめのむらくものたちです。
草薙剣は、十拳剣より重要といえます。なぜなら、この太刀をアマテラスに献上しており、三種の神器の一つだからです。そしてその後、天孫降臨・ヤマトタケルの東征など、さまざまな重要な場面に登場します。


三種の神器の一つですが、実は現在見たことのある人はおらず、天皇でさえ見たことがないといわれています。
”綱吉時代に熱田神宮の改修工事があった時、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4~5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。天野信景(名古屋藩士、国学者)の随筆『塩尻』によれば、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたという。
梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英(1671-1736年)の『玉籤集』裏書にある記載は、明治31年の『神器考証』(栗田寛著)や『三種の神器の考古学的検討』(後藤守一著)で、世に知られるようになった。
上述の著作によれば、神剣が祀られた土用殿内部は雲霧がたちこめていた。木製の櫃(長さ五尺)を見つけてを開けると、石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、その上に布に包まれた剣があった。
箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵で全てが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチメートル)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から6寸(およそ18センチメートル)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。
この証言(記述)が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣となる。
一方で、後藤守一は、(皇国史観の束縛がなくなった)太平洋戦争終戦翌年(1946年)に明治大学専門部地理歴史科(夜学)の講義で、神官が盗み見た剣は青黒かったとの伝承を紹介し、それが事実なら、赤く錆びる鉄製でなくおそらく青銅製で、弥生時代の九州文化圏に関連する可能性があるとの推測を述べた(聴講した考古学者大塚初重による回想)。
なお神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている。”(Wikipedia「天叢雲剣」より)
以上からは、草薙剣は鉄製ではなく、青銅製の可能性が高いですね。もちろんこの剣が、本物であればの話ですが・・・
さてここで、ここで大きなポイントがあります。
十握剣の刃が草薙剣(くさなぎのつるぎ)に当たった際、刃が欠けたということです。つまり十握剣よりも草薙剣のほうが、強い剣だったということになります。
それほどまでに強い剣であればこそ、スサノオは草薙剣を高天原のアマテラスに献上したのでしょう。
これはよくよく考えると、不思議な話です。
普通であれば、征服者(スサノオ)の刀は強靭で、被征服者(ヤマタノオロチ)のもつ刀をいとも簡単に打ち砕いた、という描写にするでしょう。
このことは、征服者(スサノオ)の持っていた武器より、被征服者(ヤマタノオロチ)の持っていた武器のほうが、性能が優れていた、つまり文化的に上であったことを象徴しているともいえます。
さらにまた草薙剣は、のちに三種の神器になってます。被征服者の剣を、わざわざ自らの神宝にするものでしょうか?
普通の感覚であればありえないと考えますが・・・
なぜそうしたのか?
それは古事記・日本書紀編纂時において、もともとの出雲の支配者のほうが、渡来してきた自分たちより文化的に上であったという認識が一般的だった、ということを示しているのではないでしょうか? その霊力のある神剣をありがたくいただいて、自分たちの神宝にした、ということの表れとの見方も可能ですね。
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