fc2ブログ

古事記・日本書紀のなかの史実 (67) ~稲羽の素兎

オオクニヌシまでの系譜をみてきましたが、ここからはオオクニヌシが主役です。まずは有名な「因幡の白兎」の話です。

現代訳です。
大国主(オオクニヌシ)神の腹違いの兄弟(八十(ヤソ)神)は大勢いた。しかしながら皆、自ら退いて、国を大国主神に譲った。そのわけは、八十神は、稲羽の八上比賣(ヤガミヒメ)に求婚したいと思い、稲羽(いなば)に出掛けた時、大穴牟遲(オホナムチ)神に袋を持たせ、従者のように引き連れた。
気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いている。すると、最後に現れたオホナムチが「なぜ泣いているの」と聞いた。

菟は「私は
淤岐の嶋からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、海のワニ(和邇を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。

それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。そこで、オホナムチが兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。

その兎は「八十神はヤガミヒメを絶対に得ることはできません」とオホナムチに言った。そのとおり、ヤガミヒメは八十神に「あなたたちの言うことは聞かない」とはねつけ、オホナムチに「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったため、今では兎神とされる。”
(Wikipedia「因幡の白兎」に加筆)

稲羽の素兎神話
冒頭、”オオクニヌシには兄弟が多数いるのに、なぜオオクニヌシが国を支配しているのかその理由は・・”と記載しています。つまりこの話は、オオクニヌシの国土支配譚であることがわかります。

まずオオクニヌシの名前が、オホナムチになっていることに注目です。前回お話したとおり、古層の神として描かれています。

ところでオホナムチは、なぜ袋を背負っているのでしょうか?
よくある絵図などからユーモラスなイメージをもちますが、そうではありません。

”当時袋をかつぐのは賤しい者の仕事であった”(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)より)というのが通説です。さらに
”追放者のもつべきものとして科せられたもの、「千座(ちくら)の置戸(おきと)」にあたるもの”
という説もあります。ここで「千座の置戸」とは、スサノオが高天原から追放されたときに負わされたものです(「中国古代の文化」(白川静)P133-134)。

「白兎」ですが、古事記の表記は「菟」「裸の菟」「稲羽の素菟」「菟神」です。「素兎」が「白ウサギ」と解釈されているに過ぎないことに留意です。

「淤岐嶋」も所説あります。
「淤岐嶋」には、現在の島根県隠岐郡隠岐島とする説、ほかの島(沖之島等)とする説がある。他に、『古事記』の他の部分では隠岐島を「隠伎の島」と書くのに、「稻羽之素菟」では「淤岐嶋」と書き、あるいは「淤岐」の文字は「淤岐都登理(おきつどり)」など陸地から離れた「沖」を指すことが多いため、「淤岐嶋」は特定の場所ではなく、ただ「沖にある島」を指すとする説もある。”

稲羽の素兎舞台

問題は和邇
(ワニ)です。現代人が聞くと、沼地にいる獰猛な鰐(ワニ)を思い浮かべますが、
"鰐、海蛇、鰐鮫(ワニザメ)などの諸説があるが、海のワニとあることと、出雲や隠岐島の方言に鱶(フカ)や鮫(サメ)をワニといっていることを考え合わせて、鮫と解するのが穏やかであろう”(「古事記 祝詞」(倉橋憲司他校注)P91より)
とあるとおり、サメと解釈するのが順当でしょう。

またウサギとワニの争いであることから、ウサ(兎佐)族とワニ(和邇)族の争いを象徴しているのだ、という説もあります。面白い説ではありますが、なんともいえないとことです。

さらに、
”この説話における「水門」とは河口のことであり、水で体を洗うのは生理食塩水での洗浄を意味するとの見方、さらに「蒲黃」が薬草として登場するため日本における薬の最初の史籍だとする見方もある。なお、外傷や火傷に外用薬として用いる漢方薬に、「ホオウ(蒲黄)」というヒメガマ(ガマ科)の成熟花粉を乾燥させて粉末状にした処方が存在する。オオクニヌシは、この説話および『日本書紀』の少彦名命(スクナヒコナ)と共に病気の治療法を定めたとされるため、医療の神ともされ、さまざまな薬草を使用している。”
という説明もされています。

さて注目は、この話が世界にも類話があることです。

”◆島から戻る話
シベリア少数民族の民話に、アオサギによって孤島に運ばれてたキツネアザラシに頭数を数えると言って一列に並ばせ、背を渡って戻る場面がある。キツネは渡った先で猟師の獲物となり、毛皮をはがされる。

◆小鹿の例
インドネシアに因幡の白兎と類型する話が見られるが、ウサギではなく、小鹿とされる。洪水のために川を渡れなくなった鼠鹿を騙して集め、背を踏み歩いて渡り、愚かな鰐をあざける。

◆ウサギの尻尾が短い理由を説明する話
アフリカの民話では、湖を迂回するのを億劫がったウサギが親類の数を誇るワニを挑発し、その自慢が本当か数えると騙して渡るが、ワニに尻尾を食いちぎられてしまい、そのために現在のウサギの尻尾は短いと説明される。”

こうしたことからこの神話は、単純に海外から伝えられたか、あるいははるか古代に日本人の祖先が日本列島にやってきた際にもちこまれた可能性が高いですね。
そして神話だけが伝わったのではなく、祭祀として執り行われ、支配者の事績がとりこまれながら伝承されたと推察されます。

なお、この説話は日本書記には記載されていません。古事記にこれだけ詳しく記載されているたいへん興味を引く話にもかかわらず、です。その理由は、あくまでオホナムチ(オオクニヌシ)の出雲支配の話であって、大和王権にはかかわりのない話だからではないでしょうか?


↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!



最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。  


 
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ 
にほんブログ村 



スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



最新記事
最新コメント
読者登録
メールで更新情報をお知らせしますので、こちらに登録ください。
メルマガ購読・解除
図とデータで解き明かす日本古代史の謎
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
月別アーカイブ
カテゴリ
おすすめ
twitter
amazon business
おすすめの本
ブロとも一覧

アアト日曜画家

魏志倭人伝その他諸々をひもといて卑弥呼の都へたどりつこう

☆☆ まり姫のあれこれ見聞録 ☆☆&

中国通史で辿る名言・故事探訪

幕末多摩・ひがしやまと

客船の旅

黒田裕樹の歴史講座

しばやんの日々

Paradise of the Wild bird…野鳥の楽園…
更新通知登録ボタン

更新通知で新しい記事をいち早くお届けします

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR