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古事記・日本書紀のなかの史実 (80) ~オオクニヌシの子 コトシロヌシ

次に、オオクニヌシがカムヤタテヒメを娶して生んだ子が、コトシロヌシです。

まずカムヤタテヒメですが、名義不詳とされます。

”『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売(タギツヒメ)命と同一神ということになる。また『日本書紀』には登場しない。”(Wikipedia「カムヤタテヒメ」より)

先代旧事本紀は偽書ともされますが、九世紀には成立していたとみられる物部系の書であり、軽視できません。「高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神」とは、宗像三女神のタギツヒメです。

宗像大社辺津宮
本  殿・・第一宮、イチキシマヒメを御祭神
第二宮・・沖津宮分社、タゴリヒメを御祭神
第三宮・・中津宮分社、タギツヒメを御祭神


宗像市大島の中津宮では、「湍津姫(タギツヒメ)神」が祀られています。

なお、
海部氏勘注系図には高津姫神は「神屋多底姫」(かむやたてひめ)の別名としており、『古事記』の大国主神が神屋楯比売命を娶って生んだとする記述と一致する。”(Wikipedia「事代主」より)
とあります。

以上から、カムヤタテヒメは、宗像大社のタギツヒメと同神の可能性が高いですね。そうなると、オオクニヌシが倭国に上り娶った神々の一番目がタキリヒメヒメ、二番目がタギツヒメとなり、どちらも宗像の神、すなわち北部九州の神となります。ここからも倭国は北部九州であることがわかります。

さてオオクニヌシとタギツヒメとの子がコトシロヌシです。この神は、この後、重要な場面でたびたび出てきます。

”葦原中国平定において、タケミカヅチらがオオクニヌシに対し国譲りを迫ると、オオクニヌシは美保ヶ崎で漁をしている息子のコトシロヌシが答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行きコトシロヌシに国譲りを迫ると、コトシロヌシは「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。
抵抗した弟のタケミナカタもタケミカヅチに服従すると、オオクニヌシは国譲りを承諾し、コトシロヌシが先頭に立てば私の180人の子供たちもコトシロヌシに従って天津神に背かないだろうと言った。”(Wikipedia「事代主」より)

場面は、国譲りです。アマテラスから派遣されたタケミカヅチから国譲りを迫られたオオクニヌシは、自ら戦うことなく、息子のコトシロヌシに判断を委ねます。
オオクニヌシがなんとも情けないように思えてしまいますが、戦力の差が圧倒的で、負けることが
明かだったから
でしょう。

事代主(コトシロヌシ)とは、
”言知り主、すなわち託宣を司る神の意か”(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)P105より)
とあります。
託宣とは、
”神が人に憑 (かか) り,その意志を述べること(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)”
です。
つまり、オオクニヌシはコトシロヌシを通じて神に判断を委ねた、ともいえますね。その神の判断が、「国譲りせよ」ということだったことになります。

さらにコトシロヌシは、神武天皇の段でも登場します。
『日本書紀・神武紀』には、神武天皇の皇后となる媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコトに関して
事代主神、三嶋溝橛耳神(ミシマノミゾクヒミミノカミ、陶津耳)の娘の玉櫛媛(タマクシヒメたまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)ともうす。』
とあり、事代主神は神武天皇の岳父となっています。

これは『古事記』で、
大物主(オオモノヌシ)神が三嶋湟咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)との間に富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)別名比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を生んだことと一致しています。


図示すると以下のようになります。
コトシロヌシ・オオクニヌシ系譜たしかに、古事記のオオモノヌシが、日本書紀ではコトシロヌシになっています。ただしこれをもって
コトシロヌシ=オオモノヌシ
とするのは早計です。

オオモノヌシについて、
大物主(オオモノヌシ)の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて複数の異説が見られる。
例えば古事記では詳しい説明はされておらず、オオクニヌシとは別の神である様に述べられている。
一方『日本書紀』の異伝ではオオクニヌシの別名としている(第八段第六の一書)。ただしこちらでも異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、コトシロヌシと並びオオモノヌシが明記されている(第九段第二の一書)。研究者の中には事代主神の別名が大物主神であったと主張する者もいるが、先述の異伝との比較・検証が必要である。”(Wikipedia「大物主」に加筆修正)


以上のとおり、はっきりわかりません。
門脇禎二氏は、オオモノヌシについて、次のように述べています。

”三輪信仰は、縄文文化の段階から確かめられている三輪山への自然信仰、つづく、
ご神磐座(いわくら)信仰体を蛇とする箸墓伝説などから発して、それらを集合ないし重層しつつ、大物主神がヤマト王国の国家的祭祀の中心となっていった。そして、三輪山は、天照大神が皇祖神とされる以前の皇祖神「高天原の神王高御魂の命」の静まる国家的神山であり神なびとなっていった。”

「古代出雲」(門脇禎二)P255より)

つまり三輪山信仰は、縄文にも遡りうる古代信仰であり、のちの時代にはいりヤマト王国の前身がオオモノヌシ信仰をとりこんだと述べています。

そして大和王国と出雲勢力とのかかわりのなかで、出雲の信仰も取り込まれたと考えられます。そうした過程で、出雲のオオクニヌシやコトシロヌシが、オオモノヌシに習合されていったと考えるのが、自然ではないでしょうか?


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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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