古事記・日本書紀のなかの史実 (94) ~出雲の「神統譜」と陰陽五行説の関係とは?
古田氏のもうひとつの推測は、「出雲神統譜」と「古事記神統譜」の数字区分との類似に関してです。
"出雲神統譜には、これまでみてきたように「五神」「二柱」「九神」「幷せて十六神」「幷せて八神」と、さかんに”数字区分け”を行っている。
これと同じく、
古事記冒頭の神統譜にも、「三柱」「二柱」「上の件(くだり)の五柱」「二柱」「神代七代」と、さかんに”数字区分け”を行っている。"
と指摘しています。
このうち「出雲神統譜」は次のとおりです。

一方、古事記冒頭の神統譜は次のとおりです。

この「出雲神統譜」について、
1.近畿天皇家はもとより、九州王朝の神統譜(「日本旧記」)よりもさらに古い。
2.その「数字区分け」は『古事記』冒頭の場合と異なり、きわめて自然である。机の上で、あるいは概念(陰陽の原理など)に左右されて”デッチあげた”形跡がない。
ことから、
”『古事記』は「出雲神統譜」を模倣して、新たに”数字区分け”をほどこしたのである。”
と述べています。
”そしてそのさい、陰陽の原理などの”新哲学”が反映させられたのだ。「二気の正しさに乗じ、五行の序を斉(ととの)え、神理を説(もう)く」と、太安万侶が上表文でたたえた天武天皇。その「天武の手」をここに私が感ずるのは、果たして思いすごしであろうか。”
ここで陰陽五行説が出てきました。
・二気とは、陰と陽の二つの気。
”陽と陰とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる。”(Wikipedia「陰陽」より)
・五行とは、万物を構成する木・火・土・金・水の5種類の元素。
”5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。”(Wikipedia「五行思想」より)
陰陽五行説が日本に伝わったのは、古代のそれほど古い時代ではありません。
”仏教儒教と同じ5世紀から6世紀に日本には暦法などとともに伝わり、律令により陰陽寮という役所が設置された。その後、道教の道術を取り入れて、陰陽道へと日本独自の発展をした。
また、陰陽五行思想は年中行事にも強い影響を与えているとする説もある。それによれば、正月は寅、盆は申となっており、それぞれ春、秋の始めを示す。正月は木気、火気の始めでもあり、門松を飾ったり、とんど祭りをしたりする。対して盆は水祭りとして燈籠流しなどが行われる。また、陰陽のバランスをとるためにとんどは水辺で行われ、燈籠流しは火を灯した舟を水に流す。”(Wikipedia「陰陽五行思想」より)
私は、出雲神統譜は紀元前にさかのぼると考えてますが、その時代には陰陽五行説は伝わってなかったわけです。一方、古事記成立は8世紀ですから、陰陽五行説が日本に浸透していました。
古事記において、出雲神統譜を参照して、陰陽五行説を反映させた可能性はありますね。
さらに古田氏は、論を展開します。
”天照よりも、さらに古い神統譜をもって出雲の神々が先在していた。それが、『記・紀』神話全体が力をこめて語っている根本命題だ、といわねばならぬ。
なぜなら、「国譲り→天孫降臨」とつづく日本神話草創のテーマは、”日本列島(の一角)には、すでに出雲の大国主神が支配権をもっていた。そこに天照は孫のニニギを派遣せんとし、それに成功した”というにあるからだ。
大国主がすでにそこに支配権をもっていた、という以上、それが”彼一代で築かれた”というのは不自然にすぎよう。当然、すでに大国主に至る、長く古い神統が存在していたこと、それはむしろ自明のことではあるまいか。”
これから出てくる「国譲り→天孫降臨」という話では、当時出雲を支配していたのはオオクニヌシでした。神話が何らかの史実を反映しているのであれば、オオクニヌシは実際に出雲の王として君臨していたのであり、そうであれば、オオクニヌシ以前の古い神統譜が存在していたとしても、なんら不自然ではありませんね。
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"出雲神統譜には、これまでみてきたように「五神」「二柱」「九神」「幷せて十六神」「幷せて八神」と、さかんに”数字区分け”を行っている。
これと同じく、
古事記冒頭の神統譜にも、「三柱」「二柱」「上の件(くだり)の五柱」「二柱」「神代七代」と、さかんに”数字区分け”を行っている。"
と指摘しています。
このうち「出雲神統譜」は次のとおりです。

一方、古事記冒頭の神統譜は次のとおりです。

この「出雲神統譜」について、
1.近畿天皇家はもとより、九州王朝の神統譜(「日本旧記」)よりもさらに古い。
2.その「数字区分け」は『古事記』冒頭の場合と異なり、きわめて自然である。机の上で、あるいは概念(陰陽の原理など)に左右されて”デッチあげた”形跡がない。
ことから、
”『古事記』は「出雲神統譜」を模倣して、新たに”数字区分け”をほどこしたのである。”
と述べています。
”そしてそのさい、陰陽の原理などの”新哲学”が反映させられたのだ。「二気の正しさに乗じ、五行の序を斉(ととの)え、神理を説(もう)く」と、太安万侶が上表文でたたえた天武天皇。その「天武の手」をここに私が感ずるのは、果たして思いすごしであろうか。”
ここで陰陽五行説が出てきました。
・二気とは、陰と陽の二つの気。
”陽と陰とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる。”(Wikipedia「陰陽」より)
・五行とは、万物を構成する木・火・土・金・水の5種類の元素。
”5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。”(Wikipedia「五行思想」より)
陰陽五行説が日本に伝わったのは、古代のそれほど古い時代ではありません。
”仏教儒教と同じ5世紀から6世紀に日本には暦法などとともに伝わり、律令により陰陽寮という役所が設置された。その後、道教の道術を取り入れて、陰陽道へと日本独自の発展をした。
また、陰陽五行思想は年中行事にも強い影響を与えているとする説もある。それによれば、正月は寅、盆は申となっており、それぞれ春、秋の始めを示す。正月は木気、火気の始めでもあり、門松を飾ったり、とんど祭りをしたりする。対して盆は水祭りとして燈籠流しなどが行われる。また、陰陽のバランスをとるためにとんどは水辺で行われ、燈籠流しは火を灯した舟を水に流す。”(Wikipedia「陰陽五行思想」より)
私は、出雲神統譜は紀元前にさかのぼると考えてますが、その時代には陰陽五行説は伝わってなかったわけです。一方、古事記成立は8世紀ですから、陰陽五行説が日本に浸透していました。
古事記において、出雲神統譜を参照して、陰陽五行説を反映させた可能性はありますね。
さらに古田氏は、論を展開します。
”天照よりも、さらに古い神統譜をもって出雲の神々が先在していた。それが、『記・紀』神話全体が力をこめて語っている根本命題だ、といわねばならぬ。
なぜなら、「国譲り→天孫降臨」とつづく日本神話草創のテーマは、”日本列島(の一角)には、すでに出雲の大国主神が支配権をもっていた。そこに天照は孫のニニギを派遣せんとし、それに成功した”というにあるからだ。
大国主がすでにそこに支配権をもっていた、という以上、それが”彼一代で築かれた”というのは不自然にすぎよう。当然、すでに大国主に至る、長く古い神統が存在していたこと、それはむしろ自明のことではあるまいか。”
これから出てくる「国譲り→天孫降臨」という話では、当時出雲を支配していたのはオオクニヌシでした。神話が何らかの史実を反映しているのであれば、オオクニヌシは実際に出雲の王として君臨していたのであり、そうであれば、オオクニヌシ以前の古い神統譜が存在していたとしても、なんら不自然ではありませんね。
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