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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (2) 国譲り② アメノホヒ

 
前回はタカムスヒの子、オモヒカネについての話で終わりました。訳文を再掲します。

タカムスヒアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、
思金(オモヒカネ)
「この葦原中国は、我が子の治めるべき国と委任して与えた国である。 この国に迅速に荒れすさぶ国津神たちが多くいるようだ。どの神を葦原中国に派遣すべきか。」問うた。オモヒカネと神々が相談して「天菩比(アメノホヒ)命を派遣するのが良い」という結論になった。そこでアメノホヒを遣わしたが、オオクニヌシにへつらい従って、3年経っても復命しなかった。】


さて話し合いの結果、遣わす神をアメノホヒと決定しました。
アメノホヒとは、
”アマテラスとスサノオが誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱。アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。

葦原中国平定のために出雲のオオクニヌシの元に遣わされたが、オオクニヌシを説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。後に他の使者達がオオクニヌシの子である事代主(コトシロヌシ)神や建御名方(タケミナカタ)神を平定し、地上の支配に成功すると、オオクニヌシに仕えるよう命令され、子の建比良鳥(タケヒラトリ)命出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。また、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建てたとも伝わる。”(Wikipedia「アメノホヒ」より)

せっかく遣わしたアメノホヒですが、なんとオオクニヌシに媚びへつらい従ってしまいます。始めに遣わしたオシホミミといい、アマテラスの子達はなんとも頼りないですね。しかしこれは逆に言えば、いかにオオクニヌシの勢力が強大で、とても太刀打ちできまいと思ったからでしょう。
その一方、異なる伝承もあります。

”任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子をアマテラスにきちんと報告し、子のアメノヒナドリおよび剣の神経津主(フツヌシ)神とともに地上を平定した英雄として讃えられている。
ただし『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として「火日」の意味として太陽神とする説がある。”(同上)

出雲国造神賀詞では、見事平定した英雄として称えられていおり、まったく逆な描かれ方です。
出雲国造神賀詞とは、
”出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。”(Wikipedia「出雲国造神賀詞より)

古事記編纂は712年なので、ほぼ同時期です。720年に編纂された日本書紀にも同様の記載があります。ではなぜ出雲国造神賀詞では、古事記・日本書紀と真逆の描かれ方がされているのでしょうか?

『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるから、との説明がされていますが、はたしてそうでしょうか?


”武光誠は、『神賀詞』に見られる国譲り神話のほうがその原形に近いとしている。この説によると、この神話は元々出雲氏の祖・天穂日命が大国主神を鎮めるという形で伝えられたが、朝廷による支配が強まると、天穂日命の手柄が軽んじられるようになってしまった。
一方、瀧音能之(2012年)は『神賀詞』では天穂日命が復命を怠った神とされていないと同時に、国譲りの交渉にも直接関わっていないことを指摘して、このことから『神賀詞』に見られる伝承は記紀の神話を意識して整えられたものであると主張している。”(Wikipedia「国譲り」より)

諸説ありますが、ヤマト王権の考えとは逆のストーリーを勝手に創作できるはずもありません。となると、やはりこちらが原型だった可能性が高いと推察されます。

もうひとつ、注目点があります。

”また、アメノホヒの後裔氏族として野見宿禰(ノミノスクネ)、その子孫として土師氏があり、土師氏から秋篠氏、菅原氏、大枝氏(後の大江氏)へ改姓したとのこと。菅原氏からは堂上家である高辻家、五条家、唐橋家、桑原家、清岡家、東坊城家が派生し明治期には内五家が子爵になったとのこと。大江氏からは中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江千里、大江匡衡、大江嘉言、女性では和泉式部、赤染衛門(匡衡の妻)らが選出されているとのこと。
また大江匡衡の曾孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。その曾孫として鎌倉期に頼朝を支えた大江広元がいるとされる。
(Wikipedia「アメノホヒ」より)

野見宿禰といえば、2つの有名な伝承が、日本書紀に記載されています。

”野見宿禰については、『日本書紀』垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和国の当麻邑に力自慢の当麻蹶速(タイマノケハヤ)という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿禰を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿禰は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地(現・奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。そして、野見宿禰はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。野見宿禰の「野見」は、『出雲風土記』飯石(いいし)郡条に「能見」地名の記載があり、この地の出身とされている

野見宿禰に関する2つ目の伝承として、埴輪を発明したとするものがある。『日本書紀』垂仁32年7月6日条によれば、垂仁天皇の皇后である日葉酢媛(ヒバスヒメ)命が亡くなった時、それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿禰が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを奏上し、これを非常に喜んだ天皇は、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿禰に与えたとある。”
(Wikipedia「土師氏」より)

以上の説話が史実に基づくものなのかはなんとも言えませんが、少なくとも土師氏の出自が出雲であることから生まれた話でしょう。さらに高天原が対馬・壱岐であるならば、後代に名家となる土師氏の淵源が北部九州となることにも注目です。

ちなみに卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳ですが、「土師の墓」が「土師墓」さらに「箸墓」になったとする説もあります。


誓約系譜 アメノホヒ



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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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