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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (10) 国譲り⑩ 藤原氏の出自と鹿島神宮

 
前回は、出雲の鹿島神社と茨城県の鹿島神宮の概略でした。両社の関係を考察する前に、鹿島神宮と関係の深い藤原氏についてみてきましょう。

藤原氏といえば大和王権において、長年にわたり中枢的な役割を果たしてきた名家ですが、鹿島の地とはどのような関係なのでしょうか?

”中臣鎌足の出生地は、大和藤原説と鹿嶋市下生説の二つがあります。下生説は、平安時代後期に藤原家がまとめた『大鏡』に、藤原鎌足は鹿島神宮のある常陸の鹿島で生まれたと記されています。鹿嶋市に残る言い伝えでは「神官の子として生まれ、名を鎌子といい、極めて利発な子でしたので、奈良の都へ行かせ、中臣本家に養子となった」と伝えられています。”(鹿嶋市HP 鹿島市郷土かるたの部屋「名をあげた藤原の祖 中臣鎌足」より)

地元の伝承が史実であるなら、藤原鎌足は鹿島出身ということになります。彼が奈良に行き中臣氏の養子になったということならば、中臣氏と直接の血縁関係にはなかったことになります。
他の説もあります。

”一説によると、鎌足の父は中臣御食子といい、鹿島神宮に仕える神官でした。
御食子は若くして都に学び、妻を伴って帰郷しました。
そして、鹿島の地で鎌足が生まれました。

ちょうど稲刈りの季節でしたので、その稲刈りには欠かせない大切な道具である鎌にあやかり、「鎌子」と名づけられました。
鎌子が、すくすくと成長し、二歳になった時のことです。
鎌子の母の夢の中に白狐があらわれ、「この子は、将来、国のためにりっぱな仕事をする人です。なおざりにすることなく、しっかりと育てなさい。」といい、鎌を授けていったというのです。
目が覚めた母親は、白狐のお告げを信じ、それには、やはり都で学問をさせてあげなければと考えました。
それからしばらくして、御食子は妻子を伴い、鹿島を後にして再び都へ向かったということです。また、「鎌子」という名は、白狐の授けた鎌からとったともいわれています。”(「鎌足の生誕地」(茨城の民話webアーカイブ)より)

これによると、鎌足の父が神官の中臣氏で、都から帰郷して鎌足が生まれたことになります。養子ではなさそうです。

どちらが史実に近いかはわかりません。前回鹿島神宮の祭神に、タカミカズチに加えて、中臣氏の祖神であるアマノコヤネが祀られていてもよさそうなのに、そうでないのは不思議である、という話をしました。

もし鎌足が中臣氏の養子であれば、中臣氏の祖神であるアマノコヤネが祀られていないのもなんとなくわかる気はします。なぜなら鎌足は中臣氏にそれほどの思い入れがなかった、という解釈もできるからです。

鹿島神宮・鎌足神社

では中臣氏についてみてきましょう。

”本拠地は、河内国河内郡(かわちのこおり。現・大阪府東大阪市周辺)で、枚岡(ひらおか)神社を氏神とし、このほか摂津国三嶋郡(現・大阪府高槻市、茨木市周辺)も有力な拠点であった。又、常陸国の鹿島神社・下総国の香取神社もこの氏の氏神であった。
中臣氏の先祖は、『古事記』『日本書紀』の天石屋戸(あまのいわやと)の段に登場する天児屋命(アマノコヤネノミコト)とされる。

石屋戸に籠もった天照大神に外へ出てもらうために、この天児屋命と忌部(いんべ)氏の「遠祖」の布刀玉(フトタマ)命(太玉命)が、天香山の聖なる木を根ごと掘り取り、上の枝には玉を、中の枝には八咫鏡(やたのかがみ)を、下の枝には白和幣(しろにきて)、青和幣(あおにきて)を掛け、皆で一緒に祈禱したという。

とりわけ、『古事記』では布刀玉命が「太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて」、天児屋命が「太詔戸言禱(ふとのりとごとほ)き白(まお)した(祝詞を述べた)」とあるのが注目される。これらは、両氏の職掌を表現したものとみられる。

二度目に現れるのは、天孫降臨のくだりで、『古事記』では忌部、猿女(さるめ)、鏡作、玉作らの上祖及び天児屋命の「五伴緒(いつとものお)」が邇邇藝(ニニギ)命と共に天降ったとある。『日本書紀』でも神代下第九段第一の一書(あるふみ)では、同趣旨の内容である。第二の一書では、
「天児屋命は、神事の宗源を主(つかさど)る者なり。故に太占(ふとまに)の卜事(うらごと)を以て仕え奉らしむ(天児屋命は、神事の宗源を主る者である。だから太占の占いを以て仕えてくることができた)』
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』の「大中臣系図」には、常磐大連公について、
『始めて中臣連姓を賜る。本は卜部(うらべ)なり。』
とある。もとは卜部だったというのである。これらを根拠に中臣氏の前身は、卜部であり、欽明朝に中臣連姓を賜ったとする説がある。

卜部は対馬、伊豆、常陸などに分布する卜占(ぼくせん)集団だが、横田健一は、常陸の鹿島社を奉祭する卜部が中央に進出し、宮廷の雨師的司祭者として立身したのが、中臣氏ではないかとした。
田村圓澄(えんちょう)は、『大鏡』の「鎌足の大臣の生まれ給えるは、常陸の国なれば」という記述などから、鎌足の常陸出身説を唱えている。(「日本の古代豪族100」 (水谷千秋)P 153 - 157   より)



中臣氏系譜

中臣氏は、天岩戸神話に登場したアマノコヤネの子孫であり、もとは卜部であった、というものです。鎌足の父親が神官であったこともうなづけます。注目は、卜部が対馬・伊豆・常陸などに分布している点です。なぜ中臣氏・あるいは鎌足が常陸と関係しているのか、の答えのヒントがここにありそうです。
また、
”祭祀を司る中臣氏が倭建命の東国征伐と共に鹿島を含む常総地方に定着し、古くから鹿島神ことタケミカヅチを祖神として信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。”(Wikipedia「タケミカヅチ」より)
ともされています。

なおタケミカヅチとアマノコヤネの関係について、
アマノコヤネの父をタケミカヅチとする説があり(鈴木真年「伊豆宿禰系図」『百家系図稿』第一冊)、それに従えばタケミカヅチは中臣氏の上祖となる。”(Wikipedia「鹿島神宮」より)
との説もあります。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。

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