山海経と漢書王莽傳(おうもうでん)の中の倭人 ~ 倭人の大移動?
さらに張莉氏の論文を読んでいきます。
[論文]
次に、中国の古文献に「倭」が登場するのは中国最古の地理書「山海経」である。「山海経」巻十二海内北経に「(原文略)蓋(がい)国は鉅燕(きょえん) の南、倭の北に在り、倭は燕 に属す」とある。清代に「山海経」を注釈した郝懿高の「山海経箋疏」によると、「(原文略)経の云う倭属燕は蓋し周初の事か」と述べられているが、時代がよくわからない。 燕 の楽毅将軍の活躍した戦国時代とする説もある。この頃の朝鮮半島では北側に燕 、中央に蓋 国、南側に倭があった。すなわち、この倭は朝鮮半島内にいる民族集団である。時代的にみて、恐らくは南越から移ってきた倭人のことであると思われる。
[解説]
「山海経」とは、
「中国の地理書。中国古代の戦国時代から、秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書とされる。今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、奇書扱いされている。」(wikipediaより)
とあります。
たしかに奇書とされる面もありますが、その一方で何がしかの真実を伝えている面もあるはずであり、貴重な資料と言えるでしょう。
蓋国がどこにあったのかは、いくつかの説がありますが、少なくとも倭人が朝鮮半島南部に拠点をもっていたことは、諸々の文献や遺跡などの考古学的資料からも明らかです。ここでは詳細は割愛しますが、多くの研究者が指摘しているところであり、張莉氏の推測は的を得ていると言えます。
次に、「漢書」についての話です。
[論文]
「漢書」王莽(おうもう)傳に次のような記事がある。「(原文略) すでに太平を致す。北は匈奴を化し、東は海外を致し、南は黄支(こうき)を懐(なつ) くるも、ただ西方は未だ加うること有らず。すなわち中郎将平憲 (へいけん)等を遣わして多く金弊を持し、塞外の羌(きょう)を誘い、地を献じて内属せんことを願わしむ。ー 中略 ー 復(ま)た奏して曰く、太后統を秉(と)ること数年、恩沢洋溢(よういつ)し、和気四塞(しそく)す。絶域俗を殊にするも、義を慕(したが)わざる靡(な)し。越裳(えっしょう)氏訳を重ねて白雉を献じ、黄支三萬里よりして生犀(せいさい)を貢し、東夷の王は大海を渡りて国珍を奉じ、匈奴の単于(ぜんう)は制作に順(したが)い二名を去る。いま西域の良願等復た地を挙げて臣妾なる」とある。 これは平帝の正始四年(紀元四年)の記録である。この時、平帝は十三歳であり、王莽の行政下の傀儡(かいらい)政権であった。
東西南北の国が貢献をする中で、「東夷王度大海奉国珍」の一文がある。「度大海」とあるから、この「東夷王」は、日本の地に住む倭の王であろう。ここで思い起こされるのは、『論衡』の「(原文略)成王の時、越常雉を献じ、倭人暢(ちょう)を貢す」の一文である。越裳と倭人の貢献が両方の文に載せられている。『漢書』を書いた班固が、『論衡』に書かれた内容を踏まえてこの文章を書いたのは間違いないと思われる。『論衡』は『漢書』と同時代の成立であるが、王莽と班固は知り合いであったから、その内容は既に班固に伝わっていたのだと解釈するべきであろう。中国の歴史書では、まず以前の文献の内容を載せて、更に自分が見聞きした新しい出来事を書き加えるのはよくある手段である。興味深いことは、倭人の献上品が『論衡』では「暢草」であり、『漢書』王莽傳では「国珍」となっていることである。「国珍」がもし「暢草」であるならば、「倭人貢暢」の事実を踏まえて『漢書』にも「暢草」と書かれるはずで、「国珍」と書くのはその内容が「暢草」ではないからである。ただし、「国珍」が何であるかは分からない。
[解説]
「漢書」とは、中国二十四史のひとつで、中国後漢(AD25-220年)のときに、班固らによって編纂された前漢時代(BC206-AD8)のことを記した歴史書です。そのなかの王莽傳の記事です。
引用記事、”前漢の王朝は、周囲東西南北の国々をすべて支配することができた”というのが、全体の意味ですが、その一つの王として「東夷王」があるわけです。そして「海を渡って国珍を献上してきた」とあることから、それは日本に住む倭王だ、としています。
さらに論衡での「暢草」の記載が、ここでは「国珍」になっていることからも、論衡の倭人と漢書の倭人には違いがある、すなわち
「論衡の倭人=揚子江下流域に住む倭人」
「漢書の倭人=日本本土に住む倭人」
と推測しており、合理的な指摘だと思います。
出てきた国の位置関係を図示しました。
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[論文]
次に、中国の古文献に「倭」が登場するのは中国最古の地理書「山海経」である。「山海経」巻十二海内北経に「(原文略)蓋(がい)国は鉅燕(きょえん) の南、倭の北に在り、倭は燕 に属す」とある。清代に「山海経」を注釈した郝懿高の「山海経箋疏」によると、「(原文略)経の云う倭属燕は蓋し周初の事か」と述べられているが、時代がよくわからない。 燕 の楽毅将軍の活躍した戦国時代とする説もある。この頃の朝鮮半島では北側に燕 、中央に蓋 国、南側に倭があった。すなわち、この倭は朝鮮半島内にいる民族集団である。時代的にみて、恐らくは南越から移ってきた倭人のことであると思われる。
[解説]
「山海経」とは、
「中国の地理書。中国古代の戦国時代から、秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書とされる。今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、奇書扱いされている。」(wikipediaより)
とあります。
たしかに奇書とされる面もありますが、その一方で何がしかの真実を伝えている面もあるはずであり、貴重な資料と言えるでしょう。
蓋国がどこにあったのかは、いくつかの説がありますが、少なくとも倭人が朝鮮半島南部に拠点をもっていたことは、諸々の文献や遺跡などの考古学的資料からも明らかです。ここでは詳細は割愛しますが、多くの研究者が指摘しているところであり、張莉氏の推測は的を得ていると言えます。
次に、「漢書」についての話です。
[論文]
「漢書」王莽(おうもう)傳に次のような記事がある。「(原文略) すでに太平を致す。北は匈奴を化し、東は海外を致し、南は黄支(こうき)を懐(なつ) くるも、ただ西方は未だ加うること有らず。すなわち中郎将平憲 (へいけん)等を遣わして多く金弊を持し、塞外の羌(きょう)を誘い、地を献じて内属せんことを願わしむ。ー 中略 ー 復(ま)た奏して曰く、太后統を秉(と)ること数年、恩沢洋溢(よういつ)し、和気四塞(しそく)す。絶域俗を殊にするも、義を慕(したが)わざる靡(な)し。越裳(えっしょう)氏訳を重ねて白雉を献じ、黄支三萬里よりして生犀(せいさい)を貢し、東夷の王は大海を渡りて国珍を奉じ、匈奴の単于(ぜんう)は制作に順(したが)い二名を去る。いま西域の良願等復た地を挙げて臣妾なる」とある。 これは平帝の正始四年(紀元四年)の記録である。この時、平帝は十三歳であり、王莽の行政下の傀儡(かいらい)政権であった。
東西南北の国が貢献をする中で、「東夷王度大海奉国珍」の一文がある。「度大海」とあるから、この「東夷王」は、日本の地に住む倭の王であろう。ここで思い起こされるのは、『論衡』の「(原文略)成王の時、越常雉を献じ、倭人暢(ちょう)を貢す」の一文である。越裳と倭人の貢献が両方の文に載せられている。『漢書』を書いた班固が、『論衡』に書かれた内容を踏まえてこの文章を書いたのは間違いないと思われる。『論衡』は『漢書』と同時代の成立であるが、王莽と班固は知り合いであったから、その内容は既に班固に伝わっていたのだと解釈するべきであろう。中国の歴史書では、まず以前の文献の内容を載せて、更に自分が見聞きした新しい出来事を書き加えるのはよくある手段である。興味深いことは、倭人の献上品が『論衡』では「暢草」であり、『漢書』王莽傳では「国珍」となっていることである。「国珍」がもし「暢草」であるならば、「倭人貢暢」の事実を踏まえて『漢書』にも「暢草」と書かれるはずで、「国珍」と書くのはその内容が「暢草」ではないからである。ただし、「国珍」が何であるかは分からない。
[解説]
「漢書」とは、中国二十四史のひとつで、中国後漢(AD25-220年)のときに、班固らによって編纂された前漢時代(BC206-AD8)のことを記した歴史書です。そのなかの王莽傳の記事です。
引用記事、”前漢の王朝は、周囲東西南北の国々をすべて支配することができた”というのが、全体の意味ですが、その一つの王として「東夷王」があるわけです。そして「海を渡って国珍を献上してきた」とあることから、それは日本に住む倭王だ、としています。
さらに論衡での「暢草」の記載が、ここでは「国珍」になっていることからも、論衡の倭人と漢書の倭人には違いがある、すなわち
「論衡の倭人=揚子江下流域に住む倭人」
「漢書の倭人=日本本土に住む倭人」
と推測しており、合理的な指摘だと思います。
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