漢書地理志の中の倭人 ~ 孔子は日本にあこがれていた!?
ここまで、張莉氏の論文を引用しつつ、解説してきました。漢書の中の倭人については、前回お話した漢書王莽伝のほかに、漢書地理志のなかに、有名な一節があります。
【読み下し文(「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)】
a.玄莵(げんと)楽浪(らくろう)。武帝の時、置く。皆朝鮮・濊貉(わいかく)・句麗(くり)の蛮夷。
b.殷(いん)の道衰え、箕子去りて朝鮮に之く。其の民に教うるに礼儀を以てし、田蚕織作(でんさんしょくさく)せしむ。楽浪の朝鮮の民、犯禁八条。・・・今犯禁に於いてシン多(しんた)、六十余条に至る。
【解説】
楽浪郡の歴史的由来です。中心人物は、「箕子」です。彼が中国からこの地へ行き、現地の朝鮮の民を教化した、というのです。
箕子とは、史記に登場する有名な人物です。殷末、殷王朝の親戚(しんせき)として宰相でしたが、天子紂王(ちゅうおう)は暴虐をきわめ、箕子のいさめを聞きませんでした。箕子の心友・比干(ひかん)がこれをいさめたところ、紂王はこれを殺し、「聖人の心肝(しんかん)を観よう」と称して解剖されました。ついに其子は絶望し、いつわって“発狂”し、奴隷(どれい)に身をやつしました。このあと、周の武王による「革命」がおき、殷は滅ぼされました。そして武王は、箕子を朝鮮に封じたが「臣」とはしなかった、と『史記』(宋微子世家そうびしせいか)に書かれています。殷の名家でもあり、民衆に人望の高かった箕子に対して礼をつくしたわけでしょう。 しかし、その後、箕子はみずから「革命」後の周の天子に「朝」した、と言います。例の「天子への直接拝謁(はいえつ)」です。その、都(鎬京こうけい 長安付近)へ向う途次、「故(もと)の殷墟いんきょ」を過ぎたところ、かつて繁栄していた殷の宮室は毀壊(きかい)し、ただ禾黍(かしょ いねやきび)が生いしげっていた、といいます。そしてこのときの拝謁した天子が成王でした。(以上「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)
箕子(きし)の生没年は不明ですが、箕子朝鮮(BC12世紀-BC194年)を建国した人です。周王朝への忠義を尽くした名君です。
この文章に続いて古田氏は、論衡の「西王の時代、越常は雉を献じて、倭人は暢草を献じた」との記事から、
"論衡の倭人=漢書の倭人=日本本土の倭人”
と展開しているのですが、ここではスルーして次に進みます。
【読み下し文】
c.貴む可(べ)き哉(かな)仁賢(じんけん)の化(か)や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異(ことな)る」
d. 故(ゆえ)に孔子、道の行はれざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲(ほっ)す。以(ゆえ)有る也夫(か)」
e.楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為(な)す。歳時を以(もつ)て来り献見すと云う
【解説】
「仁賢の化」は箕子の教化を指しています。問題は次のdです。これは、「論語」中の有名な一節を受けています。
「道行われずば、栰(いかだ)に乗じて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由(ゆう)か」(公治長、第五)
孔子にとっての「道」の基本は、”周の天子への忠節”だ、と考えられていました。そのような「道」を各国の諸侯に説いたのですが、表面上はともかく、本心から守ろうとする者がいない。そのような状況にいささか愛想をつかしたところ、弟子の子路(しろ、由)にふともらした言葉なのでしょう。”もし、いよいよ「道」がこの中国では行われない、こういう見極めがついたら、もういっそのこと、「栰(いかだ)」に乗って海上に浮かび、海の彼方にいるという、東夷の人々の中に入って「道」を説こう。そのとき、私に従って来てくれる者は、まあ由(ゆう)よ、お前くらいかな”。半ば冗談口の中に、ややデスペレート(絶望的)になりかけた、自分の心情を吐露したものでしょう。(以上「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)
古代中国の人びとが、周囲の民族のなかでも東夷すなわち東方の民族を、特別高く評価していたことがわかります。続いて孔子の名前が出てきます。突然、孔子が出てくるので、あれ?と思ってしまいますが、古田氏の言うように背景を理解するとすっきりします。
そして次に、有名なあの一節(e)が出てきます。
「楽浪海中の島の中に、倭人が住んでいる。分かれて百余国である。きまった年時に従って、わが中国にやってきて、貢献物を献上してきている、と言われている」
通常は、この一節だけが取り上げられるので、それだけの理解で終わってしまいますが、前段を通して読むと、理解が深まります。
この文章全体の流れから言えば、孔子の言う九夷とは倭人を指していることに、間違いないでしょう。そして、その倭人とはどこにいる倭人かと言えば、「楽浪海中」すなわち「海の中に住む倭人」となります。
孔子の居た魯の国から見れば、朝鮮半島南部へ海で渡ることもあったでしょうから、この倭人は、朝鮮半島南部の倭人とも言えます。あるいは、日本本土に住む倭人であった可能性もあるでしょう。
前回のブログでもお話した通り、当時は両方に倭人が住んでいたと考えられますから、微妙なところです。いずれにしろ、孔子が、倭人さらにはもしかしてその先の日本にあこがれをもっていたというのは、たいへん興味深いことではないでしょうか?。
孔子(BC552-BC479)
そしてさらに興味深いことは、日本に伝わっているのは、孔子の礼賛した古代周王朝の精神のみならず、文化・風習にいたるまで、様々な面にわたっており、それが現代日本にも今でも残っているという説があることです。この話は、今後のお楽しみということにいたします。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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【読み下し文(「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)】
a.玄莵(げんと)楽浪(らくろう)。武帝の時、置く。皆朝鮮・濊貉(わいかく)・句麗(くり)の蛮夷。
b.殷(いん)の道衰え、箕子去りて朝鮮に之く。其の民に教うるに礼儀を以てし、田蚕織作(でんさんしょくさく)せしむ。楽浪の朝鮮の民、犯禁八条。・・・今犯禁に於いてシン多(しんた)、六十余条に至る。
【解説】
楽浪郡の歴史的由来です。中心人物は、「箕子」です。彼が中国からこの地へ行き、現地の朝鮮の民を教化した、というのです。
箕子とは、史記に登場する有名な人物です。殷末、殷王朝の親戚(しんせき)として宰相でしたが、天子紂王(ちゅうおう)は暴虐をきわめ、箕子のいさめを聞きませんでした。箕子の心友・比干(ひかん)がこれをいさめたところ、紂王はこれを殺し、「聖人の心肝(しんかん)を観よう」と称して解剖されました。ついに其子は絶望し、いつわって“発狂”し、奴隷(どれい)に身をやつしました。このあと、周の武王による「革命」がおき、殷は滅ぼされました。そして武王は、箕子を朝鮮に封じたが「臣」とはしなかった、と『史記』(宋微子世家そうびしせいか)に書かれています。殷の名家でもあり、民衆に人望の高かった箕子に対して礼をつくしたわけでしょう。 しかし、その後、箕子はみずから「革命」後の周の天子に「朝」した、と言います。例の「天子への直接拝謁(はいえつ)」です。その、都(鎬京こうけい 長安付近)へ向う途次、「故(もと)の殷墟いんきょ」を過ぎたところ、かつて繁栄していた殷の宮室は毀壊(きかい)し、ただ禾黍(かしょ いねやきび)が生いしげっていた、といいます。そしてこのときの拝謁した天子が成王でした。(以上「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)
箕子(きし)の生没年は不明ですが、箕子朝鮮(BC12世紀-BC194年)を建国した人です。周王朝への忠義を尽くした名君です。
この文章に続いて古田氏は、論衡の「西王の時代、越常は雉を献じて、倭人は暢草を献じた」との記事から、
"論衡の倭人=漢書の倭人=日本本土の倭人”
と展開しているのですが、ここではスルーして次に進みます。
【読み下し文】
c.貴む可(べ)き哉(かな)仁賢(じんけん)の化(か)や。然して東夷の天性柔順、三方の外に異(ことな)る」
d. 故(ゆえ)に孔子、道の行はれざるを悼(いた)み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲(ほっ)す。以(ゆえ)有る也夫(か)」
e.楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為(な)す。歳時を以(もつ)て来り献見すと云う
【解説】
「仁賢の化」は箕子の教化を指しています。問題は次のdです。これは、「論語」中の有名な一節を受けています。
「道行われずば、栰(いかだ)に乗じて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由(ゆう)か」(公治長、第五)
孔子にとっての「道」の基本は、”周の天子への忠節”だ、と考えられていました。そのような「道」を各国の諸侯に説いたのですが、表面上はともかく、本心から守ろうとする者がいない。そのような状況にいささか愛想をつかしたところ、弟子の子路(しろ、由)にふともらした言葉なのでしょう。”もし、いよいよ「道」がこの中国では行われない、こういう見極めがついたら、もういっそのこと、「栰(いかだ)」に乗って海上に浮かび、海の彼方にいるという、東夷の人々の中に入って「道」を説こう。そのとき、私に従って来てくれる者は、まあ由(ゆう)よ、お前くらいかな”。半ば冗談口の中に、ややデスペレート(絶望的)になりかけた、自分の心情を吐露したものでしょう。(以上「邪馬一国への道標(古田武彦著)」より)
古代中国の人びとが、周囲の民族のなかでも東夷すなわち東方の民族を、特別高く評価していたことがわかります。続いて孔子の名前が出てきます。突然、孔子が出てくるので、あれ?と思ってしまいますが、古田氏の言うように背景を理解するとすっきりします。
そして次に、有名なあの一節(e)が出てきます。
「楽浪海中の島の中に、倭人が住んでいる。分かれて百余国である。きまった年時に従って、わが中国にやってきて、貢献物を献上してきている、と言われている」
通常は、この一節だけが取り上げられるので、それだけの理解で終わってしまいますが、前段を通して読むと、理解が深まります。
この文章全体の流れから言えば、孔子の言う九夷とは倭人を指していることに、間違いないでしょう。そして、その倭人とはどこにいる倭人かと言えば、「楽浪海中」すなわち「海の中に住む倭人」となります。
孔子の居た魯の国から見れば、朝鮮半島南部へ海で渡ることもあったでしょうから、この倭人は、朝鮮半島南部の倭人とも言えます。あるいは、日本本土に住む倭人であった可能性もあるでしょう。
前回のブログでもお話した通り、当時は両方に倭人が住んでいたと考えられますから、微妙なところです。いずれにしろ、孔子が、倭人さらにはもしかしてその先の日本にあこがれをもっていたというのは、たいへん興味深いことではないでしょうか?。
孔子(BC552-BC479)


そしてさらに興味深いことは、日本に伝わっているのは、孔子の礼賛した古代周王朝の精神のみならず、文化・風習にいたるまで、様々な面にわたっており、それが現代日本にも今でも残っているという説があることです。この話は、今後のお楽しみということにいたします。
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