三国志魏志東夷伝序文 前編 ~ 陳寿が三国志のなかで東夷伝を書いた理由とは?
成立年代として次に続くものとしては、三国志になります。三国志魏志倭人伝については、これまでのブログでお話ししてきました。そこには、日本本土に住む当時の倭人の生活が生き生きと描かれています。
実は、三国志のなかには、その他にも倭人に関する記事があります。魏志東夷伝序文、韓伝、東沃沮(とうよくそ)伝などですが、とても興味深い内容であり、参考になるので、それらを読んでいきます。
まずは、三国志魏志東夷伝序文です。名前の通り東夷伝の冒頭にあり、東夷伝を書くに至った背景について記されています。そして、最後に倭が出てくるわけですが、その扱いは格別です。
なお現代訳が手元にないので、中国正史に見える古代日本 https://traitor.jp/china/
から、お借りしました。
【現代訳】
書経には「(中国の教化は)東は海に至るまで。西は流砂が覆う地にまで(広がった)」と記されている。当然、中華の九服の制が適切に行われたことを言っているのだ。しかし辺境のまた外については、翻訳を重ねた風聞が聞こえてくるばかりであった。歩いたり馬車に乗って行けるところではなく、未だに国の風俗やその外国のことを知る者はいない。虞(帝舜)から周に至るまでの間、西戎は白環から礼物の献上があり、東夷は肅愼から貢ぎ物があった。皆久しい間、朝貢にきているが、その遠く遙かなことは以上の通りである。漢帝国の時代、張騫を派遣して西域を調査させ、黄河の源流を突き止めさせ、諸国をつぶさに巡り、遂に都護を置いて支配した。その後、西域のことが具体的に調査できるようになり、そのため、史官が詳しく記録に載せることができたのだ。魏が建国され、西域をことごとく支配下に置くことはできなかったが、その大国である龜茲、于寘、康居、烏孫、疎勒、月氏、鄯善、車師の屬は朝貢してこない年がなく、ほとんど漢の時代と変わらない。
【解説】
前半は、"中国国内は統一されたが、その外の国々の様子は、よく分からなかった。漢の時代に西域に張騫(ちょうけん)を派遣し調査して都護を置いたので、西域のことはよくわかるようになった。魏の時代には、西域は支配できなかったが、朝貢をしてこない年はない。"とあり、中国の威光が西域にまで広がったことを称えてます。
張騫の大月氏への使節団
出てきた国々を図で示すと、以下の通りになります。
これら西域の国々を横断するのが、シルクロードです。張騫 が月氏のもとへ派遣されたのがBC139年で、結局同盟には至りませんでしたが、周辺諸国を調査し、支配を強め、BC59年に都護府を置くことができました。その頃には、地中海沿岸の国々から、中国までの交易ルートは確保されていたでしょう。すなわちシルクロードです。
シルクロードの東の起点は長安ですが、西の始点がどこかは諸説あります。いずれにせよ少なくとも地中海近辺までは通じていたわけですから、ローマ帝国、ペルシャ帝国との交易にも利用されたはずです。
当時の日本、すなわち倭国もその頃には、中国との交流があったことを考えると、シルクロードにあったこれらの国々の情報は、倭国にも入っていたことでしょうし、交易品もあったことでしょう。中国から倭国への人の移動もあったわけですから、遠い西域の人びとが倭国に来たこともあったのではないでしょうか?。
となると、しばしばトンデモ説として聞かれる、"古代日本の〇〇は、実は△△人だった"といった類の話も、物理的には可能な話である、と言えます。もちろん、事実かどうかは別の話になりますが・・・。
さて、西域の国の一つに、鄯善があります。この鄯善とは、楼蘭(ろうらん)のことです。あの楼蘭の美女のミイラで有名ですよね。1980年に、タクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で発見されました。BC19世紀、約3800年前に埋葬されたもので、死亡時の年齢は40歳前後、身長約155センチメートルと推定されています。
復元された容貌です。気品を感じさせる美しさです。ヨーロッパ人の血が70パーセント入っているアーリア系人種のようです。

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