三国史記新羅本紀を読む その3 ~ ちょうど神功皇后の時代にあたるのだが・・・?
(御挨拶おそくなりましたが・・・)
新年明けましておめでとうございます。
本年は、ブログ始めて二年目に入ります。研究を重ねた成果を、少しずつではありますが、ご紹介していきます。日本古代史のロマンを感じ、楽しんでいただけたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、本題です。
新羅と倭国との戦いの話が、延々と続きます。
【現代訳】
14.倭人が国境を侵犯した。伊伐滄(いばつさん)の利音(りおん)を派遣し、軍隊を率いて、これを防がせた。<208年四月条>
15.倭人が突然来襲し、金城を包囲した。(助賁)王は、自ら出撃して戦った。(・・以下略・・)<232年四月条>
17.伊滄の于老(うろう)が、倭人と沙道(さどう)で戦った。風を利用して火を放ち、舟を焼いた。(・・以下略・・)<233年七月条>
18.倭人が舒弗邯(じょふつかん)の于老を殺した。<249年四月条>
19.倭人が一礼部を襲撃し、火を放ってこれを焼き、一千人を捕虜として去っていった。<287年四月条>
20.倭兵が来襲したと聞いて、舟と楫(かじ)とを整え、甲(よろい)と武器とを修繕した。<289年五月条>
21.倭兵が沙道城を攻め落とした。一吉滄(いつきつさん)の大谷(たいこく)に命じて、兵を率いて救わせ、これをしっかり守らせた。<292年六月条>
22.倭兵が来襲して長峯城を攻撃した。勝てなかった。<294年夏条>
【解説】
倭国が攻めてきて、新羅が防ぐ図式です。激しい闘いが続いたことが想像されます。実はこの時代、倭国では、卑弥呼・壹与(いよ)の時代に当たります。年代順に並べると、
<? 年>
・倭国内乱
<? 年>
・卑弥呼が王となり、国が治まる。
<238年>
・卑弥呼が、魏に使いを送る。
・魏より「親魏倭王」の称号が与えられる。
<240年>
・魏より、命令書、金印、鏡、などが与えられる。
<243年>
・卑弥呼が、魏に錦、絹などを送る。
<245年>
・魏から、黄幢(黄色い軍旗)が与えられる。
<247年>
・魏が、辺境監督官の張政(ちょうせい)を倭国に派遣する。
・倭国と狗奴(くな)国との戦い。
<? 年>
・卑弥呼が死去。倭国が乱れる。
<? 年>
・卑弥呼の宗女壹与が王となり、国が治まる。
<266年>
・壹与が、魏に真珠、青メノウなどを送る。
つまり、この時代、倭国は国内を治めるとともに、新羅などの朝鮮半島の国々とも戦いながら、中国との関係を必死になって築こうとしていたことがわかります。
【現代訳】
23.(儒礼)王は、臣下に語って、「倭人は、しばしばわが城や村を侵犯している。百姓は、安心してくらすことができない。自分は、百済とともに(事を)企てようと思っている。(百済と)同時に海を渡って侵入し、その国を攻撃するのは、どうだろうか」と語った。舒弗邯の弘権(こうけん)が答えて、「われわれは、水域に慣れておりません。危険を冒して遠征すれば、おそらく思わぬ危難に遭うでしょう。まして百済は、欺くことが多く、いつもわが国を併合しようとする野心をいだいております。そこで多分、(百済と)ともに同じ企てをすることは、困難でありましょう」と言った。王は、「よかろう、分かった」と言った。
24.倭国と交聘した。<300年正月条>
25.倭国王は、使者を遣わして、王子のために婚姻の要請をした。阿滄(あさん)の急利(きゅうり)の女(むすめ)を倭国王に送った。<312年3月>
26.倭国は、使者を遣わして、婚姻の要請をした。辞退するのに、女子が、すでに嫁に行ってしまったことを理由とした。<344年2月条>
27.倭王が、書を送って国交を絶った。<345年2月条>
28.倭兵が、突然風島(ふうとう)にやってきて、辺境の民家を略奪した。さらに進撃して金城を包囲し、激しく攻めてきた。(・・以下略・・)<346年条>
29.倭兵が大挙してやてきた。(奈勿(なもつ))王は、これを聞いて、おそらく抵抗することは不可能であるとみて、草の人形数千体を造らせ、衣服を着せ武器を持たせて、吐含(とがん)山の麓に立て並ばせ、勇敢な兵士一千人を斧峴(ふけん)の東方の原野に待ちぶせさせた。<364年4月条>
30.倭人は、多勢に頼って、まっすぐに進撃してきた。待ふせておいた兵士を出撃させて、その不意をついた。<364年4月条>
31.倭人は、大いに敗れ敗走した。追撃してこれを殺し、ほとんど壊滅させた。<364年4月条>
32.倭人が、来襲して金城を包囲した。五日経っても包囲を解かなかった。(・・以下略・・)<393年5月条>
【解説】
新羅王が、百済と同盟を結び倭国を攻撃することを提案しますが、家臣から却下されます。このあたり、諸国入り乱れ、お互いに牽制しあっていた様子が、うかがえます。百済は、倭国と近しい関係であり、663年の白村江で、百済の遺民軍とともに、唐・新羅連合軍と戦いました。
【現代訳】
33.倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣(みしきん)を質とした。<402年3月条>
34.倭兵がやって来て明活(めいかつ)城を攻撃し、勝つことができないで帰っていった。(実聖)王は、騎兵を率いて、これを独山の南方で待ち受け、再び戦って、これを撃破した。殺したり捕虜としたものは、三百余名であった。<405年4月条>
35.倭人が東辺を侵犯した。夏六月に、またも南辺を侵し、百人を略奪した。<407年3月条>
36,(実聖)王は、倭人が対馬島に軍営を置いて、武器や資材・食糧を貯え、わが国を攻撃しようと企んでいると聞いて、わが国は、まだ倭が出兵してこない前に、えりぬきの兵をより抜いて、兵站を撃破しようとした。(・・以下略・・)<408年2月条>
37.倭人と風島で戦い、これに勝った。<415年8月条>
38.王弟の未斯欣が、倭国から逃げ帰った。<418年秋条>
【解説】
倭国と和解し、王の子供未斯欣(みしきん)を質とした、とあります。この当時から、王の子供を相手国に差出し、和睦の担保をとる方式があったことがわかります。その未斯欣も、後に倭国から逃げ帰ります。
さて、このように倭国とのやりとりが、続いていますが、対する日本側では、どのような記録が残っているのでしょうか?。
日本書紀の記録としては、神功皇后の時代に当たります。世に言う”三韓征伐”です。以下、神功皇后の伝承です。
”夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある。
皇后は帰国後、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)。
神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。”(WIKIPEDIAより)
実は、日本書紀においては、卑弥呼と壹与の魏への朝貢( 238年他)を、あたかも神功皇后の事績のように記載しております。これにより、
卑弥呼=壹与=神功皇后
と、読み手に思わせようとしていることが、多くの研究者により指摘されております。それが、神功皇后架空説にもつながっています。
架空かどうかは別として、神功皇后が生きたとした場合の実際の年代は、干支で二周ずれている、つまり60年 × 2 =120 年 繰り下げるべきである、とされてます。
となると、神功皇后が政事を執り行ったのも、321年から389年の間ということになります。
日本書紀では、249年、262年に、新羅遠征を行ったことになりますので、これも実年代としては、369年、382年になります。そうなると、三国史記の記事の年代と合ってこます。
ただし、一般的には、神功皇后が実際に新羅遠征をしたのではなく、倭国の長年の新羅遠征をひとまとめにして神功皇后の事績にした、とされています。卑弥呼、壹与の事績を、取り込んだのと同じ手口です。
神功皇后については、伝承も多いのですが、つじつまが合っていないことも多く、謎とされています。卑弥呼の時代(3世紀前半)から新羅遠征(4世紀後半)までの、200年近い出来事を、神功皇后一人の事績に取り込んだわけですから、無理も出ます。
このように神功皇后は、日本古代史においても特異な存在です。では、なぜ日本書紀の編者たちは、このような無理をしてまで、神功皇后の事績を造り上げたのでしょうか?。それは、とても興味深いテーマなので、いずれ取り上げたい思います。
<神功皇后朝鮮遠征絵図、月岡芳年作、1880年>
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【現代訳】
14.倭人が国境を侵犯した。伊伐滄(いばつさん)の利音(りおん)を派遣し、軍隊を率いて、これを防がせた。<208年四月条>
15.倭人が突然来襲し、金城を包囲した。(助賁)王は、自ら出撃して戦った。(・・以下略・・)<232年四月条>
17.伊滄の于老(うろう)が、倭人と沙道(さどう)で戦った。風を利用して火を放ち、舟を焼いた。(・・以下略・・)<233年七月条>
18.倭人が舒弗邯(じょふつかん)の于老を殺した。<249年四月条>
19.倭人が一礼部を襲撃し、火を放ってこれを焼き、一千人を捕虜として去っていった。<287年四月条>
20.倭兵が来襲したと聞いて、舟と楫(かじ)とを整え、甲(よろい)と武器とを修繕した。<289年五月条>
21.倭兵が沙道城を攻め落とした。一吉滄(いつきつさん)の大谷(たいこく)に命じて、兵を率いて救わせ、これをしっかり守らせた。<292年六月条>
22.倭兵が来襲して長峯城を攻撃した。勝てなかった。<294年夏条>
【解説】
倭国が攻めてきて、新羅が防ぐ図式です。激しい闘いが続いたことが想像されます。実はこの時代、倭国では、卑弥呼・壹与(いよ)の時代に当たります。年代順に並べると、
<? 年>
・倭国内乱
<? 年>
・卑弥呼が王となり、国が治まる。
<238年>
・卑弥呼が、魏に使いを送る。
・魏より「親魏倭王」の称号が与えられる。
<240年>
・魏より、命令書、金印、鏡、などが与えられる。
<243年>
・卑弥呼が、魏に錦、絹などを送る。
<245年>
・魏から、黄幢(黄色い軍旗)が与えられる。
<247年>
・魏が、辺境監督官の張政(ちょうせい)を倭国に派遣する。
・倭国と狗奴(くな)国との戦い。
<? 年>
・卑弥呼が死去。倭国が乱れる。
<? 年>
・卑弥呼の宗女壹与が王となり、国が治まる。
<266年>
・壹与が、魏に真珠、青メノウなどを送る。
つまり、この時代、倭国は国内を治めるとともに、新羅などの朝鮮半島の国々とも戦いながら、中国との関係を必死になって築こうとしていたことがわかります。
【現代訳】
23.(儒礼)王は、臣下に語って、「倭人は、しばしばわが城や村を侵犯している。百姓は、安心してくらすことができない。自分は、百済とともに(事を)企てようと思っている。(百済と)同時に海を渡って侵入し、その国を攻撃するのは、どうだろうか」と語った。舒弗邯の弘権(こうけん)が答えて、「われわれは、水域に慣れておりません。危険を冒して遠征すれば、おそらく思わぬ危難に遭うでしょう。まして百済は、欺くことが多く、いつもわが国を併合しようとする野心をいだいております。そこで多分、(百済と)ともに同じ企てをすることは、困難でありましょう」と言った。王は、「よかろう、分かった」と言った。
24.倭国と交聘した。<300年正月条>
25.倭国王は、使者を遣わして、王子のために婚姻の要請をした。阿滄(あさん)の急利(きゅうり)の女(むすめ)を倭国王に送った。<312年3月>
26.倭国は、使者を遣わして、婚姻の要請をした。辞退するのに、女子が、すでに嫁に行ってしまったことを理由とした。<344年2月条>
27.倭王が、書を送って国交を絶った。<345年2月条>
28.倭兵が、突然風島(ふうとう)にやってきて、辺境の民家を略奪した。さらに進撃して金城を包囲し、激しく攻めてきた。(・・以下略・・)<346年条>
29.倭兵が大挙してやてきた。(奈勿(なもつ))王は、これを聞いて、おそらく抵抗することは不可能であるとみて、草の人形数千体を造らせ、衣服を着せ武器を持たせて、吐含(とがん)山の麓に立て並ばせ、勇敢な兵士一千人を斧峴(ふけん)の東方の原野に待ちぶせさせた。<364年4月条>
30.倭人は、多勢に頼って、まっすぐに進撃してきた。待ふせておいた兵士を出撃させて、その不意をついた。<364年4月条>
31.倭人は、大いに敗れ敗走した。追撃してこれを殺し、ほとんど壊滅させた。<364年4月条>
32.倭人が、来襲して金城を包囲した。五日経っても包囲を解かなかった。(・・以下略・・)<393年5月条>
【解説】
新羅王が、百済と同盟を結び倭国を攻撃することを提案しますが、家臣から却下されます。このあたり、諸国入り乱れ、お互いに牽制しあっていた様子が、うかがえます。百済は、倭国と近しい関係であり、663年の白村江で、百済の遺民軍とともに、唐・新羅連合軍と戦いました。
【現代訳】
33.倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣(みしきん)を質とした。<402年3月条>
34.倭兵がやって来て明活(めいかつ)城を攻撃し、勝つことができないで帰っていった。(実聖)王は、騎兵を率いて、これを独山の南方で待ち受け、再び戦って、これを撃破した。殺したり捕虜としたものは、三百余名であった。<405年4月条>
35.倭人が東辺を侵犯した。夏六月に、またも南辺を侵し、百人を略奪した。<407年3月条>
36,(実聖)王は、倭人が対馬島に軍営を置いて、武器や資材・食糧を貯え、わが国を攻撃しようと企んでいると聞いて、わが国は、まだ倭が出兵してこない前に、えりぬきの兵をより抜いて、兵站を撃破しようとした。(・・以下略・・)<408年2月条>
37.倭人と風島で戦い、これに勝った。<415年8月条>
38.王弟の未斯欣が、倭国から逃げ帰った。<418年秋条>
【解説】
倭国と和解し、王の子供未斯欣(みしきん)を質とした、とあります。この当時から、王の子供を相手国に差出し、和睦の担保をとる方式があったことがわかります。その未斯欣も、後に倭国から逃げ帰ります。
さて、このように倭国とのやりとりが、続いていますが、対する日本側では、どのような記録が残っているのでしょうか?。
日本書紀の記録としては、神功皇后の時代に当たります。世に言う”三韓征伐”です。以下、神功皇后の伝承です。
”夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある。
皇后は帰国後、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)。
神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。”(WIKIPEDIAより)
実は、日本書紀においては、卑弥呼と壹与の魏への朝貢( 238年他)を、あたかも神功皇后の事績のように記載しております。これにより、
卑弥呼=壹与=神功皇后
と、読み手に思わせようとしていることが、多くの研究者により指摘されております。それが、神功皇后架空説にもつながっています。
架空かどうかは別として、神功皇后が生きたとした場合の実際の年代は、干支で二周ずれている、つまり60年 × 2 =120 年 繰り下げるべきである、とされてます。
となると、神功皇后が政事を執り行ったのも、321年から389年の間ということになります。
日本書紀では、249年、262年に、新羅遠征を行ったことになりますので、これも実年代としては、369年、382年になります。そうなると、三国史記の記事の年代と合ってこます。
ただし、一般的には、神功皇后が実際に新羅遠征をしたのではなく、倭国の長年の新羅遠征をひとまとめにして神功皇后の事績にした、とされています。卑弥呼、壹与の事績を、取り込んだのと同じ手口です。
神功皇后については、伝承も多いのですが、つじつまが合っていないことも多く、謎とされています。卑弥呼の時代(3世紀前半)から新羅遠征(4世紀後半)までの、200年近い出来事を、神功皇后一人の事績に取り込んだわけですから、無理も出ます。
このように神功皇后は、日本古代史においても特異な存在です。では、なぜ日本書紀の編者たちは、このような無理をしてまで、神功皇后の事績を造り上げたのでしょうか?。それは、とても興味深いテーマなので、いずれ取り上げたい思います。
<神功皇后朝鮮遠征絵図、月岡芳年作、1880年>

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