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広開土王碑を読む ~ 一線級の金石文が語る古代朝鮮半島の激闘

広開土王(好太王)碑とは、高句麗の第19代王の広開土王(好太王)の業績をたたえた石碑です。中国吉林省にあり、子の長寿王が、414年に建てたと碑文にあります。長らく人目に触れることがありませんでしたが、1880年頃に、清の農民によって発見されました。風化・劣化が激しく、判読不可能な文字もあるものの、当時の人が刻んだ文章であり、第一級の資料として、きわめて貴重です。

碑文は、三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されています。

広開土王碑
好太王碑

碑文
 好太王碑碑文 

今回は、そのうち二段目の好太王の業績について、読んでいきます。

【現代訳】
141.百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって、もとから朝貢していたのである。しかるに倭は、辛卯の年[391]に、海を渡って来て、百済・□□・新羅を破って、臣民としてしまった。
142.九年[399年]己亥に、百済は、(高句麗との)誓いにそむいて、倭と和を通じた。
143.(広開土)王は、平壌に巡下した。そこで新羅は、使者を遣わして、王に申しあげて、「倭人は、新羅の国境に充ちあふれ、城や池を打ち破り、(百済の)奴客を民としてしまいました。王に帰属しまして、仰せを承りたいと願っております。」と言った。
144.十年[400年]庚子に、歩騎五万を派遣し、前進させて新羅を救援させた。男居城より新羅城に至るまで、倭は、その中に充ちあふれていた。
145.官軍が、まさにやって来ると、倭賊は、退却した。
146.倭は充ちあふれ、倭は潰滅した。
147.十四年[404年]甲辰、倭は、不法にも帯方の界に侵入した。
148.倭寇は、潰滅し、斬り殺した者は、数えきれなかった。

【解説】
冒頭、「百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって」という表現が出てきます。ずいぶんと大きく出ているな、と思われますが、これは三国史記でもお話ししたように、両国とも、もとは高句麗出身の王が建国した国だという伝承が、背景にあると思われます。そうしたところへ倭が攻め入ってきて、百済・新羅を支配したことを語っています。

391年というと、宋書倭国伝によれば、倭の五王の一人、讃が中国の宋に朝貢したのが421年ですから、それの30年前にあたります。また、次回お話しする「七支刀」銘文によれば、百済王が倭国王の旨に七支刀をたてまつったのが369年です。つまり、倭国王の旨から讃にかけての時代ということになります。
399年に百済が倭国と和睦する話も、三国史記百済本紀にありました。397年条に、「百済王は、倭国と好誼を結び、太子の腆子(てんし)を質とした」とありますので、それを示しているとみてよいでしょう。

400年に、南下して今のピョンヤンあたりに来た広開土王に、新羅が救援を懇願します。高句麗の救援により、倭軍を退却させたと記載されています。一方、三国史紀新羅本紀によると、402年条に、「新羅は倭国と好誼を通じ、奈忽王の子未斯欣(みしきん)を質とした」とあります。このあたりのいきさつは複雑ですが、この時は倭国との戦いに破れ、新羅は泣く泣く王子を人質に差し出した、といったところでしょうか。
一度は退却した倭国軍が、404年に北上して、帯方郡に侵入しますが、ついに高句麗軍が潰滅させた、と広開土王の功績を称えています。

さて、このように5世紀頃の朝鮮半島における高句麗、新羅、百済、倭国の勢力争いを記している貴重な碑ですが、碑文に関しては、改竄・捏造説があります。それは、"旧大日本帝国陸軍が実地調査をして、拓本(墨によって紙に写しとったもの)を持ち帰ったが、その際、日本に都合のいいように、碑の文字を改竄・捏造した"というものです。そして、"元の内容は、(諸説ありますが、例えば)海を渡って攻めたのは倭国ではなく、逆に高句麗が海を渡って倭国に攻め入り破ったのだ"というものです。

改竄・捏造説が出てきた背景には、碑文の内容をそのまま認めると、"昔の日本つまり倭国が朝鮮半島まで攻め入ってきたことになり、はなはだ不愉快である。逆に倭国まで攻め入り、破ったとすれば、素晴らしい功績となる"ということだと推察されます。激しい論争が繰り広げられましたが、2006年に、中国社会科学院の徐建新氏により、1881年に作成された現存最古の拓本が、日本陸軍の持ち帰った拓本と完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定されました。(wikipediaより)

詳細は省きますが、いずれにしろこの碑文に書かれている内容は、朝鮮半島正史である三国史記に書かれている内容とほぼ一致していること、逆に高句麗が日本本土に攻め入ったという記事はないという事実からみても、改竄・捏造説は成り立たないことは明白であると考えられます。


広開土王軍と倭国軍の激闘(404年頃)
広開土王碑

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倭国は日本ではない。

広開土王碑の解釈については、未だに倭国を今の日本だと解釈していて無理なこじつけで辻褄を合わせようとする方々が多いようだ。

遣唐使の時でさえ、新羅船を借りて渡航する技術しか持たなかった日本が海を渡って他国を攻めるなどとは考えられない。

白村江の海戦でも何十何百の船が玄界灘を越え黄海まで行って戦うなどというのは夢物語を語っているようだ。

古代の新羅、百済、高句麗の国の位置が違うことや、日本を7世紀以前の大陸古代史に加えようとするからこうなる。

このことは、山縣明郷氏の研究に詳しい。

Re: 倭国は日本ではない。

Misinさんへ
コメントありがとうございます。

> 広開土王碑の解釈については、未だに倭国を今の日本だと解釈していて無理なこじつけで辻褄を合わせようとする方々が多いようだ。

私は、当時の倭国は韓半島南部から九州北部を中心とした地域を支配していた、と考えてます。広開土王との戦いも、韓半島南部の倭人が前線部隊となって戦ったのでしょう。
ただし碑には、
「倭は、辛卯の年[391]に、海を渡って来て、百済・□□・新羅を破って、臣民としてしまった。」
とあることから、九州北部からの援軍があったことがわかります。

> 遣唐使の時でさえ、新羅船を借りて渡航する技術しか持たなかった日本が海を渡って他国を攻めるなどとは考えられない。

倭国はもともと海人族の国であり、舟で生業を立ててていました。朝鮮半島には、日本列島からもちこんだとしか考えられないものが、多数出土してます。当然、交易も盛んに行っていた、と考えるのが自然です。

三韓征伐

三韓征伐は鉄の利権確保が目的。百済と九州北部が民族的に同じ呉系江南人O1b2の親戚同士だったから百済を助ける為の軍事介入だったと妄想してる人が居ますが、仮にそうだったとしても国益が最優先された筈で何らかの見返りなしのボランティアなど絶対有り得ない。

韓国では九州倭国を作ったのは百済、大和朝廷を作ったのは新羅だと嘘の歴史教育がプログラムされてます。しかし出雲出身者のDNAを解析したら関西ではなく東北地方の集団に近い事が判明。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=332425
やはり神話というのは当てになりません。

Re: 三韓征伐

> 三韓征伐は鉄の利権確保が目的。百済と九州北部が民族的に同じ呉系江南人O1b2の親戚同士だったから百済を助ける為の軍事介入だったと妄想してる人が居ますが、仮にそうだったとしても国益が最優先された筈で何らかの見返りなしのボランティアなど絶対有り得ない。

それはそうでしょうね。

Re: タイトルなし

> 韓国では九州倭国を作ったのは百済、大和朝廷を作ったのは新羅だと嘘の歴史教育がプログラムされてます。しかし出雲出身者のDNAを解析したら関西ではなく東北地方の集団に近い事が判明。
> http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=332425
> やはり神話というのは当てになりません。

これも結論づけるには、まだまだデータ不足ですね。先般鳥取県の弥生時代の青谷上寺地遺跡から出土した人骨を分析した研究成果が発表されました。結果は、女性は多くが渡来系、しかもさまざまな地域出身であること、一方男性は縄文系が多い、という驚くべきものでした。
渡来系の人々がやってきたといっても、もともとの縄文人と融合していったわけであり、人口比率的には、縄文人が多かったことでしょう。東北地方は縄文系が多いですから、ご指摘の件についても、これまでの私の仮説と整合してます。



一筆啓上。
参考にしていただければ幸いです。

『那珂東洋略史 第6章 東洋諸国の古史』(明治36年)・・「韓種は韓国の南部に古くより繁殖し、魏の頃は馬韓辰韓弁辰の三種に分かれて三韓と称し、馬韓五十余国は今の忠清全羅二道を占めて、その内に百済国(忠清道稷山県)あり。辰韓十二国は慶尚道の東北部を占めて、その内に新羅国(今の慶州府)あり。弁辰十二国は慶尚道の西南部を占めて、その内に加羅(今の金海府)安羅(今の咸安郡)等あり。」
これを裏付ける支那の文献は一つもありません。近代的東洋史学の開拓者といわれる那珂通世の偽造史です。この偽造史を助けたのが小藤文次郎。東大教授で地質学の権威でした。同じく東大教授の多田文男は次のように伝えています。

『世界地誌I 第4章朝鮮半島の自然』・・「日本の地質学の祖といわれる小藤文次郎博士は
1900年(明治33年)から1902年かけて朝鮮8道を踏破し、その成果と古来の文献にもとづいて、1903年に「朝鮮山岳論」を刊行した。その概要は次の通りである。
ソウル(旧京城)から元山にいたるあいだ、現在、京元線のとおるあたりに、黄海から日本海まで南南西から北北東に半島を横断して走る低地帯がある。楸哥嶺(竹駕嶺)(590m)はこの地溝帯の谷分水界である。この地溝帯によって半島は自然的にも人文的にも二大区分される。小藤博士はこれより西北を箕子の朝鮮の栄えた古朝鮮、南を三韓の地、韓土と名づけた」
箕子朝鮮は半島にはありません。支那の文献は以下のように伝えています。
『旧唐書 巻53 列伝第3 李密伝』・・「遼水の東は朝鮮の地なり」遼水は現在名を渾河と言います。
『旧唐書 巻61 列伝第11 温彦博伝』・・「遼東の地は周が箕子の国と為す」
遼東は朝鮮半島ではありません。
恐惶頓首。

どうして朝鮮半島に百済、帯方郡が在るのでしょう?なぜ404年頃の朝鮮半島に新羅が在るのでしょう?

「梁書巻五十四列伝第四十八諸夷百済」
其の国もと句麗と遼東の東にあり。晋の世、句麗すでに略して遼東を有し、百済もまたよって遼西、晋平二郡の地を有し、自ら百済郡を置く」
晋の世→西晋の武帝(265年)〜東晋の恭帝(420年)。

「通典巻一百八十五辺防一東夷上百済」
百済またよって遼西、晋平二郡を有す。今の柳城、北平の間なり」

「欽定満州源流考巻三部族三百済」
旧国は馬韓に属し晋代以降ことごとく馬韓の故地を得たり。遼西、晋平二郡を兼有し、自ら百済郡を置きたり。宋書に云へらく、治する所はこれを晋平郡晋平県と謂ふ。都城は居抜城と号す。則ち百済郡は即ち晋平なり。而して居抜城は即ち晋平城なり。馬端臨謂ふに、晋平は唐の柳城、北平の大地の間にあり。実に錦州の寧遠、広寧の境なり」
錦州→中国遼寧省錦州市。
寧遠→中国遼寧省興城市。
広寧→中国遼寧省錦州市黒山県。

「括地志輯校巻四蛮夷東夷」
百済国の西南渤海中に大島十五所あり。皆、邑落に人ありて居す。百済に属す」
上記の一文、西暦641年のものです。百済滅亡が660年です。さて、渤海が西南に見える所はどこでしょう。それは遼東半島西岸の北部域。朝鮮半島から渤海は見えないと思います。

Re: タイトルなし

お答えします。

> 「括地志輯校巻四蛮夷東夷」
> 百済国の西南渤海中に大島十五所あり。皆、邑落に人ありて居す。百済に属す」
> 上記の一文、西暦641年のものです。百済滅亡が660年です。さて、渤海が西南に見える所はどこでしょう。それは遼東半島西岸の北部域。朝鮮半島から渤海は見えないと思います。

国の位置は、時代とともに移動するのが常です。
ご指摘のとおり、百済は当初遼東半島付近にあったようです。

それが『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南(漢江付近)に移動したようです。訳は、http://mb1527.thick.jp/N3-19-4kudarasaiken.html参照。

百済が滅亡する以前の古い時代で、百済と高句麗の力関係が拮抗していた時代に、百済は、高句麗領域を飛び越えて、遼西の晋平郡晋平県(現在の朝陽と北京の間付近)に百済郡を設置して、後方から高句麗を牽制していた時代があります。

最終的に百済が滅亡しますが、
中国の史書「通典百済伝」に、「660年の百済滅亡後、長城付近(遼西東部の百済郡)の残留民は段々と数が少なくなり、気力も尽きて突厥とか靺鞨族に投降し、百済郡太守扶余崇は、滅亡した百済(熊津、扶余)に帰ることが出来ないで、あちこちうろうろし、遂には滅んでしまった」とあります。以上、http://tokyox.matrix.jp/wordpress/二つの百済/ 参照。

このようにみていくと、もともと遼東半島にあった百済は、国を追われて南下しましたが、故地には遺民も多く残っていたでしょうから、そこにも拠点をもっていた、ということではないでしょうか。

原典が確認できないので他サイトからの引用が多くなりましたが、このように考えればおかしなところはないかと思われます、

★コメントされる際は、ハンドルネームで結構なので、名前を記入されるようお願いいたします。
どなたからのコメントか混乱してしまうので・・。


百済の残留民

スミマセン、先日来延々とお邪魔しましたhyenaです。

ちょっと気になる記事を見かけたのでコメントさせていただきます。

>中国の史書「通典百済伝」に、「660年の百済滅亡後、長城付近(遼西東部の百済郡)の残留民は段々と数が少なくなり、気力も尽きて突厥とか靺鞨族に投降し、百済郡太守扶余崇は、滅亡した百済(熊津、扶余)に帰ることが出来ないで、あちこちうろうろし、遂には滅んでしまった」とあります。以上、http://tokyox.matrix.jp/wordpress/二つの百済/ 参照。

についてですが、参照元のサイトはものすごい方のサイトで私も通りすがりに拝見して驚嘆しております。ただ、一部気になるところもあります。

青松光晴さんが引用されたとおり、引用元には「長城付近」とありますが、『通典』の原文では、【其舊地沒於新羅,城傍餘衆後漸寡弱,散投突厥及靺鞨】となっています。これは手元の「武英殿版」「無刊記本」いずれも同じで、「中國哲學書電子化計劃」のサイトでも同じです。また、『東アジア民族史2 正史東夷伝』百済では「城の周辺の〔百済の〕遺民は」と原文に沿って訳してあります。

参照元のサイトの方は「城」を「長城」と訳しておられるのですが文意から見てひょっとするとこれは「長城」のことを言ってるのかも、、、と少し納得しそうになりました。

「長」のある・なしで全体の意味がかなり大きく違ってきますので、校勘の大切さが改めて感じられます。

失礼いたしましたm(_ _)m
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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