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中国、朝鮮資料のまとめ ~ 倭人発祥の地から倭国そして日本国誕生まで

ここまで、中国史書や朝鮮史書をはじめ、多くの資料を読んできました。節目節目でポイントをまとめてきましたが、情勢量が膨大であり、時代が多岐にわたる上、さまざまな国名、地名や人名なども出てきて、混乱された方もおられるかと思います。今回は、これまでの内容のポイントを、時系列でまとめました。

【倭人の源流】
・倭人は、中国南方、主に江南と呼ばれる揚子江(長江)以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた越族(百越)のうちのひとつの民族であり、揚子江下流域に住んでいた。
・一方、黄河中流域には殷(いん)王朝(BC17世紀-BC1046年)が栄えていた。
・古公亶父(ここうたんぽ、周王朝初代武王の曾祖父)の長男太伯(たいはく)は、倭人の住む揚子江下流域に南下して、国(のちの)を作った。(BC12-11世紀頃)
・太伯の弟の子(武王)は、殷を滅ぼし、周王朝の時代(BC1046-BC771年)となった。
・倭人は、その中国周王朝に、暢草(ちょうそう、薬草)を献じていた。[論衡]
・春秋戦国時代に入り、の滅亡(BC473年)、の滅亡(BC306年)など、多くの国々の興亡を経て、始皇帝の秦が初めて中国全土を統一した(BC221年)。しかしそれも束の間、劉邦率いる漢に滅ぼされ、漢が中国統一した(BC206年)。
・こうした、長年の動乱により、多くの民が、四方に逃れていった。そのうちの、ある集団は、朝鮮半島へ行き南下して、あるものはさらに日本本土へと渡っていった。中国本土から舟で直接日本へ渡った集団もあったと思われる。
・そうした人びとが、イネを始めとして、さまざまな文化、風習を、日本へ持ち込んだと考えられる。

【倭国の誕生】
・倭人たちは、朝鮮半島南部から九州北部にかけた領域を、拠点とした。
・しだいに勢力を広げ、百余国の国々を形成した。[漢書地理志ほか]
・それらの国を、総称として、倭(委、ゐ)国と呼んだ。[後漢書東夷伝]
・その中心となる国は、博多湾岸にあった。[三国志魏志倭人伝]
・その一分派であった、のちの神武天皇は、東へ向かい、畿内に居を構えた。[新唐書日本伝]
・57年、倭奴国の使者が、後漢の光武帝に朝貢した。光武帝は、金印「漢の委奴国王」を授けた。[後漢書東夷伝]
・105年、倭国王の帥升(すいしょう)らは、皇帝の謁見を願ってきた。[後漢書東夷伝]

【邪馬壹(やまい)国】
・倭国の国々のうち、使者や通訳がやってくるのは、30国ちょっとである。
・帯方郡から、倭国の中心「邪馬壹(やまい)国」までは、12000里、舟で十日、陸を行くこと一月である。
・海にもぐって魚介類を採るなど、海洋民族であり、南方の風俗と同じである。
・規律正しい。
・もともと男を王としていたが、内乱となり、一人の女を王と立てた。この王を卑弥呼という。
・祭祀政治を司り、人々を治めた。弟が政治を補佐していた。
・見たことのある者は少なく、召使いの女たち千人が、世話をしていた。
・男は一人だけ出入りを許され、命令を伝えたりしていた。
・東に海を渡ると別の倭種がいる。
・小人の国がある。東南に海で一年いくと、国がある。
・238年、卑弥呼は魏に使いを送った。魏の皇帝は、卑弥呼を親魏倭王に任じた。
・240年、魏の皇帝は、卑弥呼に、金印、鏡、絹などを与えた。
・247年、狗奴国との戦い。
・卑弥呼が死に、男の王を立てたが、ふたたび争いになった。
・卑弥呼の縁続きの壹与(いよ)を立て、国は収まった。[以上三国志魏志倭人伝]
・倭人は身体に入れ墨をしており、呉の太伯の子孫だと称していた。[翰苑]
・やがて邪馬壹国は、邪馬臺(やまだい)国と、呼ばれるようになった。[後漢書東夷伝]

【倭王旨から五王の時代】
・372年、百済は、倭王旨に七支刀を献上した。[七支刀銘文]
・421年、高祖武帝が、倭国王讃(さん)に、官職を授けた。
・425~451年、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)が、朝貢し、官職を賜った。
・478年、武(ぶ)が、上表文を奉り、使持節・都督倭・新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命された。[宋書倭光伝]
・この間、前後も含め、長きにわたり、朝鮮半島において、新羅、百済、高句麗などと戦い・和睦を繰り返した。[三国史記、広開土王碑]

【俀(たい)国】
・国は、東西五ヶ月行程、南北三ヶ月行程(朝鮮半島南部から西日本)。
・600年に、王の名は、阿海(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)に使者を派遣した。
・妻は、雞弥(きみ)、太子は利歌弥多弗利(りかみたふり)という。
・阿蘇山という山がある。
・607年、多利思北孤が朝貢した。国書に「日出ずる処の天子より、日没する処の天子へ」とあり、煬帝(ようだい)は、不機嫌になった。
・608年、煬帝は、使者裴世清(はいせいせい)を派遣した。倭国王が迎え、饗応した。[以上隋書俀(たい)國伝]
・俀(たい)国とは、倭(い)国⇨大倭(たいい)国⇨俀(たい)国へと、変化したものと推察される。

【倭国から日本国へ】
倭国は、古の倭奴(いど)国である。[旧唐書倭国伝]
日本国は、倭国の別種である。
・唐に入朝した日本人は自慢を言い、信用できない。[旧唐書日本国伝]
・国王の名は、阿海(あま)氏、初代国王は、天中御主(あまのなかみぬし)、彦瀲 (ひこなぎさ)に至るまで32代、筑紫城に住んでいた。
・彦瀲の子神武が立ち、都を大和に遷した。

・701年に、文武が立ち、大宝と改元した。[以上新唐書日本伝]
・670年頃、倭国から日本国へ改名した。[三国史記新羅本紀]


【解説】
いかがでしょうか?。考察も交えていますが、さまざまな史書に多岐にわたり記載されていることが、決してバラバラな話ではなく、あるひとつのストーリーのもとに描かれていることが、おわかりいただけたことと思われます。そのストーリーとは、簡単に言うと、
"倭人は、もともと揚子江下流域に住んでいた。周王朝の流れをくむ太伯が黄河流域からやってきて、国を建国した(のちの呉、BC11世紀頃)。その後、春秋戦国時代(BC8-BC3世紀)に入り、長年の動乱を逃れ、朝鮮半島を経て、あるいは舟で直接日本に上陸した。倭人は次第に勢力圏を広げ、倭国を形成したが、その中心は、福岡県博多湾岸にあった邪馬壹国であり、歴代国王の一人が女王卑弥呼(3世紀前半)であった。その後、九州王朝として発展し、倭の五王をはじめとして、たびたび朝鮮半島諸国と交戦し、支配権を確立した。隋の煬帝へ国書を出した「日出ずる処の天子」も、九州王朝の国王である。やがて朝鮮出兵による影響もあり次第に力が衰えていった。それに対して一分派だった大和勢力が台頭し、ついに8世紀初頭に政権交代した。その中で、国名を日本国と改名した。"
というものです。

もちろん、原文は漢文であり、判読できない文字もあるので、さまざまな読み方があり得ます。各部分において、「こういった解釈をすべき」との意見も多々あるでしょう。しかしながら、それらは部分部分の解釈であって、一連の流れの中で全体を見据えたなかで解釈していくと、上でまとめたストーリーが、もっとも自然な解釈になるのではないでしょうか?。

以上の流れを図示すると、このようになります。

倭人から日本国へ

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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