邪馬台国までの道程をたどる(1)〜帯方郡から狗邪韓国までの道程を決定づける「短里」とは?
前回まで、日本神話、中国史書、朝鮮史書などを読みながら、倭人発祥の地から、倭国、そして日本国誕生までの、ストーリーを描いてきました。
ところで、読者の中には、「ちょっと待ってくれよ。そんな勝手な解釈をされても困るよ。」とお考えになった方もおられるのではないか、と課題提起しました。
たとえば、
1.邪馬台国が、博多湾岸にあったというが、魏志倭人伝をいくら読んでも、そうはならない。
2.神武天皇東征が史実であり九州王朝の一分派だったと、どうしてわかるのか。
3.遺跡などの証拠となる科学的データは、出ているのか。
などです。
他にも多々あるかと思われますが、これからひとつづつお話ししていきます。
まずは、日本古代史最大の謎とも言うべき、"邪馬台国は、どこにあったのか?"についてです。
今までは、三国志魏志倭人伝などを根拠にして、お話ししてきましたが、その魏志倭人伝の読み方がさまざまであり、そこに混乱の原因があるわけです。
これから、数回にわたり、魏志倭人伝を詳しく見ていきます。
原文をひとつずつ読みます。なお、
・「邪馬台国はなかった(古田武彦著)」
・久留米大學公開講座2014年「魏志倭人伝と邪馬壹国への道」(正木裕)
を参考にします。
はじめは、帯方郡から朝鮮半島東南端までです。
【原文】
従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里
【訓み下し文】
郡より倭に至るには、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其の北岸狗那韓国(くやかんこく)に至る七千余里。
【解説】
郡とは、帯方郡のことです。帯方郡とは、古代中国によって置かれた軍事・政治・経済の地方拠点です。詳しい位置はわかっていませんが、現在のピョンヤン南部からソウルのあいだにあったとされています。
その帯方郡から、倭国への道程が始まります。
まず、「循海岸水行」とありますが、これは「海岸の地形にそいつつ、水行する」の意です。
「歴(ふ)るとは、「次々に見る」の意。そして「乍(たちま)ちA,乍(たちま)ちBとは、「AとBとを小刻みに繰り返す」意義の熟語です。以上から、「海岸に循って水行して、帯方郡西南端にいたり、そこから上陸して陸行にうつり、南下・東行をいわば「階段式」に、小刻みに繰り返して、狗邪韓国 (くやかんこく)にいたった」となります。
なお、狗邪韓国とは、現在の釜山付近にあった倭国北西端の国であり、加羅(から)[または伽耶(かや)]国と推察されます。
図示すると、このようになります。
そしてもうひとつのポイントが、帯方郡から狗邪韓国までの距離7000余里です。ここで、1里の距離が問題となります。私たちは、昔、歴史の授業で習った一里塚を思い出し、1里=4000mと、考えてしまいますが、当時の一里は、違います。
同じ三国志魏志のなかの韓伝に、国土を「方四千里可(ばか)り」と記載しており、韓国は一辺四千里の正方形であることがわかります。
一辺の距離が約300km=約300,000mとして、
4000里=約300,000m
すなわち、
1里=約75 m
となります。
下図の通りです。
以上はごく簡単な算数で、議論の余地はありません。
里の標記は、これから沢山出てくるのですが、実は、この1里の距離が定まらないために、邪馬台国の位置が、定まらない最大の要因のひとつとなっています。
どういうことかと言いますと、一般的には、古代中国では、1里=約400メートルとされており、それを基に、道程を計算しているのです。だから邪馬台国沖縄説など、はるか遠い地域の説が出てきたり、さらに方角も変えて邪馬台国畿内説となるわけです。
それに対して、古田武彦氏が、"魏晋朝では1里= 約 75 mであった"という、いわゆる「短里説」を唱え、邪馬台国の位置を、比定しました。
この説は、現在にいたっても学会で認められていないようですが、先に記した「韓国の方四千里」を検証すれは、自ずから結論が出ると思うのですが、いかがでしょうか?。
なお、「1里=75m」は、他資料により多面的にも導きうるのですが、話が詳細になりますので、別の機会に取り上げたいと思います。
そして、帯方郡から倭国の北岸である狗邪韓国までが7000余里です。
7000余里=7000余里 × 75 m/里= 525,000m余り=525km余り
となります。
韓国内の陸行を6000余里として、
6000余里=6000余里×75m/里 =450,000m余り=450km余り
とすると、
帯方郡から韓国北西部までの水行が、
7000余里 - 6000余里 = 1000里=1000里 × 75m/里 = 75,000m =75km
となり、地図上の距離ともほぼ合ってきます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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たとえば、
1.邪馬台国が、博多湾岸にあったというが、魏志倭人伝をいくら読んでも、そうはならない。
2.神武天皇東征が史実であり九州王朝の一分派だったと、どうしてわかるのか。
3.遺跡などの証拠となる科学的データは、出ているのか。
などです。
他にも多々あるかと思われますが、これからひとつづつお話ししていきます。
まずは、日本古代史最大の謎とも言うべき、"邪馬台国は、どこにあったのか?"についてです。
今までは、三国志魏志倭人伝などを根拠にして、お話ししてきましたが、その魏志倭人伝の読み方がさまざまであり、そこに混乱の原因があるわけです。
これから、数回にわたり、魏志倭人伝を詳しく見ていきます。
原文をひとつずつ読みます。なお、
・「邪馬台国はなかった(古田武彦著)」
・久留米大學公開講座2014年「魏志倭人伝と邪馬壹国への道」(正木裕)
を参考にします。
はじめは、帯方郡から朝鮮半島東南端までです。
【原文】
従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里
【訓み下し文】
郡より倭に至るには、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其の北岸狗那韓国(くやかんこく)に至る七千余里。
【解説】
郡とは、帯方郡のことです。帯方郡とは、古代中国によって置かれた軍事・政治・経済の地方拠点です。詳しい位置はわかっていませんが、現在のピョンヤン南部からソウルのあいだにあったとされています。
その帯方郡から、倭国への道程が始まります。
まず、「循海岸水行」とありますが、これは「海岸の地形にそいつつ、水行する」の意です。
「歴(ふ)るとは、「次々に見る」の意。そして「乍(たちま)ちA,乍(たちま)ちBとは、「AとBとを小刻みに繰り返す」意義の熟語です。以上から、「海岸に循って水行して、帯方郡西南端にいたり、そこから上陸して陸行にうつり、南下・東行をいわば「階段式」に、小刻みに繰り返して、狗邪韓国 (くやかんこく)にいたった」となります。
なお、狗邪韓国とは、現在の釜山付近にあった倭国北西端の国であり、加羅(から)[または伽耶(かや)]国と推察されます。
図示すると、このようになります。

そしてもうひとつのポイントが、帯方郡から狗邪韓国までの距離7000余里です。ここで、1里の距離が問題となります。私たちは、昔、歴史の授業で習った一里塚を思い出し、1里=4000mと、考えてしまいますが、当時の一里は、違います。
同じ三国志魏志のなかの韓伝に、国土を「方四千里可(ばか)り」と記載しており、韓国は一辺四千里の正方形であることがわかります。
一辺の距離が約300km=約300,000mとして、
4000里=約300,000m
すなわち、
1里=約75 m
となります。
下図の通りです。

以上はごく簡単な算数で、議論の余地はありません。
里の標記は、これから沢山出てくるのですが、実は、この1里の距離が定まらないために、邪馬台国の位置が、定まらない最大の要因のひとつとなっています。
どういうことかと言いますと、一般的には、古代中国では、1里=約400メートルとされており、それを基に、道程を計算しているのです。だから邪馬台国沖縄説など、はるか遠い地域の説が出てきたり、さらに方角も変えて邪馬台国畿内説となるわけです。
それに対して、古田武彦氏が、"魏晋朝では1里= 約 75 mであった"という、いわゆる「短里説」を唱え、邪馬台国の位置を、比定しました。
この説は、現在にいたっても学会で認められていないようですが、先に記した「韓国の方四千里」を検証すれは、自ずから結論が出ると思うのですが、いかがでしょうか?。
なお、「1里=75m」は、他資料により多面的にも導きうるのですが、話が詳細になりますので、別の機会に取り上げたいと思います。
そして、帯方郡から倭国の北岸である狗邪韓国までが7000余里です。
7000余里=7000余里 × 75 m/里= 525,000m余り=525km余り
となります。
韓国内の陸行を6000余里として、
6000余里=6000余里×75m/里 =450,000m余り=450km余り
とすると、
帯方郡から韓国北西部までの水行が、
7000余里 - 6000余里 = 1000里=1000里 × 75m/里 = 75,000m =75km
となり、地図上の距離ともほぼ合ってきます。

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