邪馬台国までの道程をたどる(2)~一行は一日にどれくらいの距離を進んだのか?
前回は、帯方郡から舟で韓国北西部に上陸して後、韓国内陸をジグザグに進み、朝鮮半島東南端の狗邪韓国(現在の釜山付近)まで旅してきました。
その距離は、いわゆる短里(1里=約75m)で、7000余里、すなわちおよそ525kmほどであるとお話ししました。
ところで、一行は、7000余里を、どのくらいの日数をかけて進んだのでしょうか?。
なぜ、ここで敢えて日数にこだわるのかというと、後に出てきますが、帯方郡から邪馬台国までを「水行10日、陸行1月」と記載しており、邪馬台国の位置比定に、極めて重要な要素だからです。
ここで一つ見逃しがちですが、ポイントがあります。後年になって編纂された「隋書俀(たい) 国伝」にある、「倭人は里数を計ることを知らず、距離を計るには日数で数える」との記載です。
つまり、"当時の倭人は、距離を測ることを知らなかったので、その代わりに、目的地へ行くまでにかかる日数で測っていた"ことになります。逆に、日数がわかれば、目的地までのおおよその距離がわかることになります。
さて、それでは詳細に見ていきましょう。まずは、陸上を歩いて行く「陸行」についてです。
魏志「魏志六、裴松之注所引「英雄記」」に、「昼夜三百里来る」とあります。
また、同じ三国志の「蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」」に、「鴑牛(どぎゅう、*人のあだな)一日三百里を行く」とあり、三国志の時代の標準的な陸行速度は、「1日あたり三百里」だったと考えられます。
現代でも、一般的に、人の歩く速度は、ゆっくり歩けば時速4kmほどです。300里を、300里 × 75 m/里 = 22.5 km として計算すると、一日あたり進む時間は、
300里 ÷4km/時 = 22.5km ÷4km/時 = 約5.6時間
ですから、一日約6時間となります。当時は、道も整備されていないなか、多くの荷物を積んだ荷車を、人力でゆっくりと押して行くわけですから、妥当な数字でしょう。結論として、「1日あたり三百里、20~25km程度進んだ」です。
次に、水行すなわち船で進む場合です。
1975年に、韓国の仁川から博多まで古代船を復元し実験航海(47日間)した「野生号」の経験から、条件によって変わるものの、
「約3ノット(5.4km/時)程度+(または-)潮流の速度」だったと考えられています。
当時は手漕ぎの船だったとして、一日7時間程度漕ぐと、
5.4km/時 × 7時間 = 約38km=約500里
進みます。
野生号
「千里(短里で約75km)」を航海すれば、所要時間は、
75km÷5.4km/時 = 約14時間
程度で、1日7時間手漕ぎで漕いで、2日間の航海となります。
つまり、「水行千余里」と記載されていれば、「船で二日かかる」ということです。
ここで注意しなくてはいけないのは、、「水行千余里」とあっても、、短絡的に「実際の距離も千余里である」とは限らないことです。当時は、海上の距離を計ることなど不可能でしたから、距離はあくまで目安であり、重要なのは、「船で二日かかる」ということです。
なお、当時すでに中国では、帆船があったとする説もありますが、それほどのスピードが出たとも考えにくいので、同様とみなしていいでしょう。
以上をまとめると、
A.陸行の場合
一日あたり300里、20~25km程度。
B.水行の場合
一日あたり500里、35~40km程度(あくまで目安)。
となります。
さて、それでは前回お話しした、帯方郡から狗邪韓国まで、どのくらいの日数がかかったのかを見ていきましょう。
帯方郡から狗邪韓国まで、7000余里の内訳として
a.帯方郡〜韓国西北端 (水行)
1000里、約75km
b.韓国西北端〜狗邪韓国(陸行)
6000余里、約450km
でした。
すると、それぞれにかかった日数は、
a.帯方郡〜韓国西北端 (水行)
1000里÷500里/日=2日
b.韓国西北端〜狗邪韓国(陸行)
6000余里÷300里/日=20数日
となります。
以上を、図示します。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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その距離は、いわゆる短里(1里=約75m)で、7000余里、すなわちおよそ525kmほどであるとお話ししました。
ところで、一行は、7000余里を、どのくらいの日数をかけて進んだのでしょうか?。
なぜ、ここで敢えて日数にこだわるのかというと、後に出てきますが、帯方郡から邪馬台国までを「水行10日、陸行1月」と記載しており、邪馬台国の位置比定に、極めて重要な要素だからです。
ここで一つ見逃しがちですが、ポイントがあります。後年になって編纂された「隋書俀(たい) 国伝」にある、「倭人は里数を計ることを知らず、距離を計るには日数で数える」との記載です。
つまり、"当時の倭人は、距離を測ることを知らなかったので、その代わりに、目的地へ行くまでにかかる日数で測っていた"ことになります。逆に、日数がわかれば、目的地までのおおよその距離がわかることになります。
さて、それでは詳細に見ていきましょう。まずは、陸上を歩いて行く「陸行」についてです。
魏志「魏志六、裴松之注所引「英雄記」」に、「昼夜三百里来る」とあります。
また、同じ三国志の「蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」」に、「鴑牛(どぎゅう、*人のあだな)一日三百里を行く」とあり、三国志の時代の標準的な陸行速度は、「1日あたり三百里」だったと考えられます。
現代でも、一般的に、人の歩く速度は、ゆっくり歩けば時速4kmほどです。300里を、300里 × 75 m/里 = 22.5 km として計算すると、一日あたり進む時間は、
300里 ÷4km/時 = 22.5km ÷4km/時 = 約5.6時間
ですから、一日約6時間となります。当時は、道も整備されていないなか、多くの荷物を積んだ荷車を、人力でゆっくりと押して行くわけですから、妥当な数字でしょう。結論として、「1日あたり三百里、20~25km程度進んだ」です。
次に、水行すなわち船で進む場合です。
1975年に、韓国の仁川から博多まで古代船を復元し実験航海(47日間)した「野生号」の経験から、条件によって変わるものの、
「約3ノット(5.4km/時)程度+(または-)潮流の速度」だったと考えられています。
当時は手漕ぎの船だったとして、一日7時間程度漕ぐと、
5.4km/時 × 7時間 = 約38km=約500里
進みます。
野生号

「千里(短里で約75km)」を航海すれば、所要時間は、
75km÷5.4km/時 = 約14時間
程度で、1日7時間手漕ぎで漕いで、2日間の航海となります。
つまり、「水行千余里」と記載されていれば、「船で二日かかる」ということです。
ここで注意しなくてはいけないのは、、「水行千余里」とあっても、、短絡的に「実際の距離も千余里である」とは限らないことです。当時は、海上の距離を計ることなど不可能でしたから、距離はあくまで目安であり、重要なのは、「船で二日かかる」ということです。
なお、当時すでに中国では、帆船があったとする説もありますが、それほどのスピードが出たとも考えにくいので、同様とみなしていいでしょう。
以上をまとめると、
A.陸行の場合
一日あたり300里、20~25km程度。
B.水行の場合
一日あたり500里、35~40km程度(あくまで目安)。
となります。
さて、それでは前回お話しした、帯方郡から狗邪韓国まで、どのくらいの日数がかかったのかを見ていきましょう。
帯方郡から狗邪韓国まで、7000余里の内訳として
a.帯方郡〜韓国西北端 (水行)
1000里、約75km
b.韓国西北端〜狗邪韓国(陸行)
6000余里、約450km
でした。
すると、それぞれにかかった日数は、
a.帯方郡〜韓国西北端 (水行)
1000里÷500里/日=2日
b.韓国西北端〜狗邪韓国(陸行)
6000余里÷300里/日=20数日
となります。
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