邪馬台国までの道程をたどる(4)~1里=約75mという「短里」を検証する
今回は、対海国(対馬)から、一大国(壱岐)へと、船で渡ります。
【原文】
又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国、(中略)、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴
【訓み下し】
又、南、一海を渡る、千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰う。一大国に至る。方三百里なる可(べ)し。竹林・叢多く、三千許(ばか)りの家有り。差(やや)田地有り、田を耕せども猶食するには足らず。亦、南北に市糴す。
【解説】
対馬を発った船は、一大国すなわち壱岐島へ向かいます。到着地は、壱岐北端として、ここで一泊、翌日島内を進みます。どのルートを通ったかは不明ですが、南東部へ向かったと思われます。南東部は原の辻遺跡がでるなど、古代の環濠都市があった場所です。さらに南西部にある現在の郷ノ浦港へ向かったとすると、まがりくねった道をゆっくり進むことになります。距離は、300里の正方形の二辺として、
300里(約22.5km)×2=600里(約45km)程度
です。1日300里進んだとして、2日間です。ここで一泊して、翌日末蘆(まつら)国へ、向かいます。
下図のルートが想定されます。
ところで、ここまで距離については、「短里」すなわち、"1里=約75m"を使ってお話ししてきましたが、ここで検証したいと思います。
どこからどこまで何里、という記載は、そもそも古代においては、起点と終点の位置が確定できない場合が多く、そこから正確な計算がしにくいというのが、ほとんどです。
ところが、ここに格好の事例があります。「対海国と一大国」の距離千余里です。
対海国が対馬であり、一大国が壱岐てあることは、異論がないところです。また、二つの島の位置関係が、現在と古代では違うといったことはありえません。ですから、その間の距離がわかれば、それが千余里ですから、1里の距離がわかるわけです。
対馬と壱岐のそれぞれどこを、起点、終点とするかで、違いは出てきます。また、水行の場合は、1日を500里として記載したと考えられるので、ぴったりとはいきませんが、目安にはなります。では、改めて見ていきましょう。
今回のルート、すなわち対馬南島の南東部から壱岐の北端までのコースをとったとして、実際の移動距離は、
20km +50km=70km
これが千余里ですから、
70km=千余里
すなわち
1里=約70m
です。
起点、終点が別の地点としても、ある程度の範囲内に収まります。1里=約75mと考えて、大きな誤差は出ません。つまり、「短里に合理性がある」と言えます。
一方、従来の1里=400m(便宜上「長里」と呼びます。)とした場合は、どうでしょうか?。
千余里=400m/里×1000里=400km
となります。
対馬から400kmとなると、 とんでもない場所になります。
図示します。
短里の場合、ほぼ壱岐周辺に収まります。これに対して長里の場合、南方面は九州南部を超えますし、東方面は島根県の隠岐島あたりになります。こうなると、どこに一大国があるのか、訳かわからなくなります。
こうした疑問に対して、従来の学者は、「千余里などという記載自体が、あてずっぽうで書いたものどから、信用に値しない」としています。それもひとつの考え方ですが、もしそういったスタンスを取るのであれば、そもそも、魏志倭人伝の道程記載全体についても、「信用に値しない」ことになります。
となると、結果的に「邪馬台国の位置を比定することを放棄します」と自ら宣言しているに等しいと考えますが、いかがでしょうか?。
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【原文】
又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国、(中略)、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴
【訓み下し】
又、南、一海を渡る、千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰う。一大国に至る。方三百里なる可(べ)し。竹林・叢多く、三千許(ばか)りの家有り。差(やや)田地有り、田を耕せども猶食するには足らず。亦、南北に市糴す。
【解説】
対馬を発った船は、一大国すなわち壱岐島へ向かいます。到着地は、壱岐北端として、ここで一泊、翌日島内を進みます。どのルートを通ったかは不明ですが、南東部へ向かったと思われます。南東部は原の辻遺跡がでるなど、古代の環濠都市があった場所です。さらに南西部にある現在の郷ノ浦港へ向かったとすると、まがりくねった道をゆっくり進むことになります。距離は、300里の正方形の二辺として、
300里(約22.5km)×2=600里(約45km)程度
です。1日300里進んだとして、2日間です。ここで一泊して、翌日末蘆(まつら)国へ、向かいます。
下図のルートが想定されます。


ところで、ここまで距離については、「短里」すなわち、"1里=約75m"を使ってお話ししてきましたが、ここで検証したいと思います。
どこからどこまで何里、という記載は、そもそも古代においては、起点と終点の位置が確定できない場合が多く、そこから正確な計算がしにくいというのが、ほとんどです。
ところが、ここに格好の事例があります。「対海国と一大国」の距離千余里です。
対海国が対馬であり、一大国が壱岐てあることは、異論がないところです。また、二つの島の位置関係が、現在と古代では違うといったことはありえません。ですから、その間の距離がわかれば、それが千余里ですから、1里の距離がわかるわけです。
対馬と壱岐のそれぞれどこを、起点、終点とするかで、違いは出てきます。また、水行の場合は、1日を500里として記載したと考えられるので、ぴったりとはいきませんが、目安にはなります。では、改めて見ていきましょう。
今回のルート、すなわち対馬南島の南東部から壱岐の北端までのコースをとったとして、実際の移動距離は、
20km +50km=70km
これが千余里ですから、
70km=千余里
すなわち
1里=約70m
です。
起点、終点が別の地点としても、ある程度の範囲内に収まります。1里=約75mと考えて、大きな誤差は出ません。つまり、「短里に合理性がある」と言えます。
一方、従来の1里=400m(便宜上「長里」と呼びます。)とした場合は、どうでしょうか?。
千余里=400m/里×1000里=400km
となります。
対馬から400kmとなると、 とんでもない場所になります。
図示します。

短里の場合、ほぼ壱岐周辺に収まります。これに対して長里の場合、南方面は九州南部を超えますし、東方面は島根県の隠岐島あたりになります。こうなると、どこに一大国があるのか、訳かわからなくなります。
こうした疑問に対して、従来の学者は、「千余里などという記載自体が、あてずっぽうで書いたものどから、信用に値しない」としています。それもひとつの考え方ですが、もしそういったスタンスを取るのであれば、そもそも、魏志倭人伝の道程記載全体についても、「信用に値しない」ことになります。
となると、結果的に「邪馬台国の位置を比定することを放棄します」と自ら宣言しているに等しいと考えますが、いかがでしょうか?。
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