邪馬台国位置比定の考古学的証拠とは?(5) ~ 絹
邪馬台国を決定づける出土物として、重要なものとしては、絹を挙げないわけにはいかないでしょう。魏志倭人伝には、
”蚕に桑を与え、絹糸を紡いだりしている。細い麻布や硬めの絹織物や真綿を作る。”
とあり、当時、倭国において絹が生産されていたことがわかります。
また魏の皇帝より卑弥呼に対して宛てた書には(248年),
”特に、紺地に模様のついた錦を三匹、斑の細かい模様の毛織物を五張、白絹五十匹・・・を与えよう”
とあります。それに対して、卑弥呼が御礼の使者を送り、
”国産の錦、赤と青の絹織物、錦のドレス、絹の布地”
などを献上しました(243年)。
さらに、卑弥呼の宗女壹与(いよ)が、
”エスニック風デザインの錦二十匹など”
を、献上しています。
このなかで、錦とは、
”多数の色糸や金銀糸を用いて模様を表した絹織物。総じて豪華な織物を称する。中国では漢代にすぐれた錦が織られた。”(マイペディアより)ものです。
このように、倭国産の絹製品は魏の皇帝へ献上されたわけですから、かなりの上質なものであったことでしょう。また、いかに当時の倭国において、貴重なものであったが推測できます。支配層の人々は、絹の衣装をまとっていたと想像されます。卑弥呼が、"絹の女王"と呼ばれる所以です。
さて、その絹の出土状況です。弥生時代に絞って整理します。
黄色部は、福岡県。
ご覧のとおり、現在までに出土している絹は、何とすべて北九州の福岡県、佐賀県、長崎県です。しかも、博多湾に面する地域に集中しています。
なお、出土した絹は倭国産がほとんどですが、ひとつだけ図中⑧の須玖岡本(すくおかもと)遺跡から出た絹だけは中国産です。このことから、 岡本遺跡の墳墓は、王クラスの墓と考えられています。
福岡県甘木市にも出土していますが、質量ともに、博多湾岸の地域に比べると劣ります。また、その後の発掘調査で、吉野ヶ里遺跡(⑤の朝日北遺跡近傍)からも、出土しています。
いすれにしろ、魏志倭人伝であれだけ強調されている絹の出土が、当時のものとしては、日本全国探しても北九州、特に博多湾岸に集中している、という事実は、極めて大きな意味をもつと言えるのではないでしょうか?。
たびたび掲載してますが、卑弥呼想像図です。確かに、絹の着物ですね。
当時の、上層人の服装を推定したものです。
(吉野ヶ里歴史公園HPより)
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”蚕に桑を与え、絹糸を紡いだりしている。細い麻布や硬めの絹織物や真綿を作る。”
とあり、当時、倭国において絹が生産されていたことがわかります。
また魏の皇帝より卑弥呼に対して宛てた書には(248年),
”特に、紺地に模様のついた錦を三匹、斑の細かい模様の毛織物を五張、白絹五十匹・・・を与えよう”
とあります。それに対して、卑弥呼が御礼の使者を送り、
”国産の錦、赤と青の絹織物、錦のドレス、絹の布地”
などを献上しました(243年)。
さらに、卑弥呼の宗女壹与(いよ)が、
”エスニック風デザインの錦二十匹など”
を、献上しています。
このなかで、錦とは、
”多数の色糸や金銀糸を用いて模様を表した絹織物。総じて豪華な織物を称する。中国では漢代にすぐれた錦が織られた。”(マイペディアより)ものです。
このように、倭国産の絹製品は魏の皇帝へ献上されたわけですから、かなりの上質なものであったことでしょう。また、いかに当時の倭国において、貴重なものであったが推測できます。支配層の人々は、絹の衣装をまとっていたと想像されます。卑弥呼が、"絹の女王"と呼ばれる所以です。
さて、その絹の出土状況です。弥生時代に絞って整理します。
絹製品出土地(弥生時代) | |||
No | 時代(弥生) | 遺跡名 | 所在 |
① | 前期末 | 有田 | 福岡市早良区 |
② | 中期初頭 | 吉武高木 | 福岡市西区 |
③ | 中期前半 | 比恵 | 福岡市博多区 |
④ | 中期前半および後半 | 栗山 | 福岡県甘木市 |
⑤ | 中期中葉 | 朝日北 | 佐賀県神埼郡神埼町 |
⑥ | 中期後半 | 立岩 | 福岡県飯塚市 |
⑦ | 中期後半 | 門田 | 福岡県春日市 |
⑧ | 中期後半 | 須玖岡本 | 福岡県春日市 |
⑨ | 中期後半 | 吉ケ浦 | 福岡県太宰府市 |
⑩ | 中期後半 | 三会村 | 長崎県島原市 |
⑪ | 中期後半 | 樋渡 | 福岡市西区 |
⑫ | 後期初頭 | 栗山 | 福岡県甘木市 |
⑬ | 後期終末 | 宮の前 | 福岡市西区 |
⑭ | 後期終末~古墳前期 | 唐の原 | 福岡市東区 |
黄色部は、福岡県。

ご覧のとおり、現在までに出土している絹は、何とすべて北九州の福岡県、佐賀県、長崎県です。しかも、博多湾に面する地域に集中しています。
なお、出土した絹は倭国産がほとんどですが、ひとつだけ図中⑧の須玖岡本(すくおかもと)遺跡から出た絹だけは中国産です。このことから、 岡本遺跡の墳墓は、王クラスの墓と考えられています。
福岡県甘木市にも出土していますが、質量ともに、博多湾岸の地域に比べると劣ります。また、その後の発掘調査で、吉野ヶ里遺跡(⑤の朝日北遺跡近傍)からも、出土しています。
いすれにしろ、魏志倭人伝であれだけ強調されている絹の出土が、当時のものとしては、日本全国探しても北九州、特に博多湾岸に集中している、という事実は、極めて大きな意味をもつと言えるのではないでしょうか?。
たびたび掲載してますが、卑弥呼想像図です。確かに、絹の着物ですね。

当時の、上層人の服装を推定したものです。

(吉野ヶ里歴史公園HPより)
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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