邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは(11)? まとめ ~ 出土物からみても邪馬台国はここだ!
さて、ここまで三国志魏志倭人伝から比定した邪馬台国の位置について、考古学的見地からみてきました。具体的には、鉄、鏡、勾玉、銅矛、絹、そして、三種の神器(剣、鏡、玉)が出土した位置、出土物の中身などからみて、これらすべてが、福岡県北部、特に博多湾岸近辺に集中していることがわかります。
それでは、これらの出土位置と邪馬台国を推定した範囲を、地図で確認します。わかりやすいものとして、絹および三種の神器出土位置を、地図に落とします。
ご覧のとおり、邪馬台国想定範囲およびその周辺に集中していることがわかります。三雲、井原、平原の3遺跡は、伊都国及びその周辺で異論がないところです。吉武高木、須玖岡本遺跡が、邪馬台国内、そのなかでも特に中心領域に位置していることが見てとれます。
すでにお話したように、須玖岡本遺跡周辺は、青銅器、鉄、ガラス製造工房が集中していました。さらに、"現在の博多の南に位置する比恵遺跡~那珂遺跡~須玖岡本遺跡までの広い範囲"は、一体の遺跡群とみなされますが、その範囲もこの中心領域内です。
地名も、天孫降臨に関係する「日向」「くしふる山」、君が代の歌詞の「千代」「さざれ石」「いわら」「こけむすめ」が、あります。また、三雲遺跡は、天孫降臨した「ニニギノミコト」とその妻「コノハナサクヤヒメ」のお墓との言い伝えがあります。さらに、志賀海神社は、「君が代」の元歌と思われる歌を歌う「山ほめ祭り」があります。もちろん、金印「漢委奴国」を出土したのは、志賀島です。
さらに、古事記のなかに、もう一つ、興味深い記載があります。
”ホヲリノミコト、すなわちヒコホホデミノミコトは、高千穂の宮にいて、五百八十年に及んだ。その陵は、その高千穂の山の西にある”
ホヲリノミコトとは「山幸彦」のことですが、彼が”高千穂に宮があり、五百八十年にわたり王として君臨した”というのです。五百八十年とは、二倍年暦としても二百九十年で、非現実的です。これは一人ということではなく、襲名つまり、同じホヲリノミコトという同じ名称の王の治世が、二百九十年間続いた、と解釈できます。
そして、注目すべきは次です。”そのお墓は、(代々)高千穂の西にある。”とあります。どうでしょうか?。高千穂つまり高祖山から日向峠にかけての西側に、三雲、井原、平原と、王の墓があるではありませんか。現在では、3つの墓しかみつかっていませんが、実際にはその数倍以上の墓があった考えるのが自然です。つまり、古事記記載のとおりということです。
ここで、日本の神々の系譜を、改めてみてみます。
ニニギノミコト、ホヲリノミコト、そして神武天皇の流れが、よくわかると思います。
以上のとおり、三国志魏志倭人伝や古事記の記述、考古学上の成果、地名、神社言い伝えなど、すべてにおいて、一致しています。まさに、以前のブログ
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-6.html
でお話しした"シュリーマンの法則'です。すなわち、"神話は、何らかの歴史的事実を反映したものである"ということを、見事に示しています。
「こんなのは、単なる偶然じゃないか。」
とか、
「こじつけに過ぎない」
との考えをもたれた方もいるかと思われます。
それはそれで結構ですが、問題は、
「では、同じようにすべての条件を満たしている地域が、他にあるのか?」
です。
一つ、二つの条件に合致している場所はあるでしょうが、すべて、つまり、三国魏志倭人伝、古事記、考古学上の成果、地名や神社言い伝えなどすべてが一致して、きれいに説明できる場所は、他にはないのでしょうか?
これに対して、
「魏志倭人伝の記載は、あてにならないのだ。」
「古事記など、ただの神話に過ぎない。」
「新たな遺跡が、これから発掘されるのだ。」
という反論もあるでしょう。
しかしそうであるなら、そもそも魏志倭人伝や古事記を、真面目に研究する意味がありません。また、遺跡については、確かに新たな遺跡が発見される可能はあります。例えば、卑弥呼が魏の皇帝からもらった「親魏倭王」の金印がどこからか出土すれば、一気にそこが卑弥呼の墓と確定するでしょう。
そういう観点から言えば、あくまで'現時点での考古学上の成果からみて"という、前提条件はつきます。
しかしながら、逆に言えば、「"現時点での考古学上の成果から見れば'邪馬台国の位置は、ここ博多湾岸近辺と考えるのが、最も合理的である。」と言い得るのではないでしょうか?。あとは、読者の皆さんの判断に、お任せいたしたいと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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それでは、これらの出土位置と邪馬台国を推定した範囲を、地図で確認します。わかりやすいものとして、絹および三種の神器出土位置を、地図に落とします。

ご覧のとおり、邪馬台国想定範囲およびその周辺に集中していることがわかります。三雲、井原、平原の3遺跡は、伊都国及びその周辺で異論がないところです。吉武高木、須玖岡本遺跡が、邪馬台国内、そのなかでも特に中心領域に位置していることが見てとれます。
すでにお話したように、須玖岡本遺跡周辺は、青銅器、鉄、ガラス製造工房が集中していました。さらに、"現在の博多の南に位置する比恵遺跡~那珂遺跡~須玖岡本遺跡までの広い範囲"は、一体の遺跡群とみなされますが、その範囲もこの中心領域内です。
地名も、天孫降臨に関係する「日向」「くしふる山」、君が代の歌詞の「千代」「さざれ石」「いわら」「こけむすめ」が、あります。また、三雲遺跡は、天孫降臨した「ニニギノミコト」とその妻「コノハナサクヤヒメ」のお墓との言い伝えがあります。さらに、志賀海神社は、「君が代」の元歌と思われる歌を歌う「山ほめ祭り」があります。もちろん、金印「漢委奴国」を出土したのは、志賀島です。
さらに、古事記のなかに、もう一つ、興味深い記載があります。
”ホヲリノミコト、すなわちヒコホホデミノミコトは、高千穂の宮にいて、五百八十年に及んだ。その陵は、その高千穂の山の西にある”
ホヲリノミコトとは「山幸彦」のことですが、彼が”高千穂に宮があり、五百八十年にわたり王として君臨した”というのです。五百八十年とは、二倍年暦としても二百九十年で、非現実的です。これは一人ということではなく、襲名つまり、同じホヲリノミコトという同じ名称の王の治世が、二百九十年間続いた、と解釈できます。
そして、注目すべきは次です。”そのお墓は、(代々)高千穂の西にある。”とあります。どうでしょうか?。高千穂つまり高祖山から日向峠にかけての西側に、三雲、井原、平原と、王の墓があるではありませんか。現在では、3つの墓しかみつかっていませんが、実際にはその数倍以上の墓があった考えるのが自然です。つまり、古事記記載のとおりということです。
ここで、日本の神々の系譜を、改めてみてみます。

ニニギノミコト、ホヲリノミコト、そして神武天皇の流れが、よくわかると思います。
以上のとおり、三国志魏志倭人伝や古事記の記述、考古学上の成果、地名、神社言い伝えなど、すべてにおいて、一致しています。まさに、以前のブログ
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「こんなのは、単なる偶然じゃないか。」
とか、
「こじつけに過ぎない」
との考えをもたれた方もいるかと思われます。
それはそれで結構ですが、問題は、
「では、同じようにすべての条件を満たしている地域が、他にあるのか?」
です。
一つ、二つの条件に合致している場所はあるでしょうが、すべて、つまり、三国魏志倭人伝、古事記、考古学上の成果、地名や神社言い伝えなどすべてが一致して、きれいに説明できる場所は、他にはないのでしょうか?
これに対して、
「魏志倭人伝の記載は、あてにならないのだ。」
「古事記など、ただの神話に過ぎない。」
「新たな遺跡が、これから発掘されるのだ。」
という反論もあるでしょう。
しかしそうであるなら、そもそも魏志倭人伝や古事記を、真面目に研究する意味がありません。また、遺跡については、確かに新たな遺跡が発見される可能はあります。例えば、卑弥呼が魏の皇帝からもらった「親魏倭王」の金印がどこからか出土すれば、一気にそこが卑弥呼の墓と確定するでしょう。
そういう観点から言えば、あくまで'現時点での考古学上の成果からみて"という、前提条件はつきます。
しかしながら、逆に言えば、「"現時点での考古学上の成果から見れば'邪馬台国の位置は、ここ博多湾岸近辺と考えるのが、最も合理的である。」と言い得るのではないでしょうか?。あとは、読者の皆さんの判断に、お任せいたしたいと思います。
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