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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(14)~沖ノ島誓約におけるパラダイムシフト

論文はここから、「沖ノ島誓約によるパラダイムシフト」という話に移ります。今までの話と重なるところもありますが、改めてみていきましょう。

”勢力を強めてきていたヤマト王権を中心とする畿内や瀬戸内地方では、弥生時代終末期まで依然として鉄の欠乏状態が続いていた。が続く古墳時代前期のうちには、瀬戸内海交易路が開発されたため大量の鉄器が畿内に流入し、古墳にも多量に副葬されるようになる。一方大口の顧客を失った博多湾貿易は、古墳時代前期後半には衰退する。その効果は絶大であった。”

【解説】
畿内では、弥生時代終末期までが欠乏してました。北部九州には紀元前5-同4世紀には鉄が入っていたのに対して、畿内は3世紀になりようやく入ってきたわけで、実におよそ700年も遅れていたことになります。鉄は最先端の文明を象徴するものですから、畿内は文明の後進地だったことになりますね。
古墳時代前期に瀬戸内海交易路が開発されたことから、ようやく畿内にも鉄が流入しますが、すぐに多量に入ってきたわけではありません。纏向遺跡の3世紀代の遺構から、鉄器生産が行われたことを示す鞴(ふいご)の羽口(はぐち)、鉄滓、鉄片が出土(第174次調査、桜井市纏向学研究センターHPより)しましたが、鉄器としては鉄鏃など少量に限られてます。
少なくともこの時代、ヤマト王権の拠点とされる纏向遺跡に、大量の鉄器が流入した痕跡は見出せません。
一方古墳時代前期後半以降、博多湾貿易が衰退していきますが、以上のこととの関連は何ともいえません。

”このようなパラダイムシフトが起きるには、なにか大きな政治イベントがあったはずである。それは、ヤマト王権をはじめ、安定した貿易ルートを渇望していた東方諸豪族の参加・協力による、貿易路確立の誓約のための会盟であったのではないか。十分な鉄を持っていなかった当時のヤマト王権は、単独で 瀬戸内ルートを確立できるほどの武力を持ち合わせていたとは思われない。しかし崇神天皇三輪山祭祀開始の説話にあるように、祭祀権という強力なリーダーシップを持っていた(三輪山祭祀は、沖ノ島とほぼ同時期に始まっている)。その誓約のための祭りが、最初の沖ノ島祭祀であったのではないか。
「ウケイ神話」は、それを象徴的に示したものと思われる。「ウケイ」は、誓約という字で表現されている。まさに多くの関係者が集まって誓約を行ったことを示している。
その会盟の目的は、沖ノ島経由で山陰勢力が直接輸入していた鉄を、沖ノ島から瀬戸内海経由で 畿内方面に安全に運ぶことにあると考えられる。従って焦点の沖ノ島が祭祀場所に選ばれるのは、当然のことである。ただしそれには、特権を奪われる出雲を中心とする山陰勢力の承諾または屈服が必要である。しかも山陰勢力は朝鮮半島の産鉄地に権益を保有していたと思われるし、また出雲は 鉄の最重要な対価であったと思われる玉類の最大の生産地でもあるので、会盟への出雲勢力の積極的な参加が必要であった。

【解説】
これも以前出てきた推測です。ありうる話であり、読む限りはもっともらしい説です。
しかしながらこの説には欠点があります。
鉄が畿内に入るようになったのは古墳時代前期ころから、すなわち3世紀代からです。一方、沖ノ島祭祀が始まったのは、4世紀後半の岩上祭祀からです。1世紀ものずれがあるのであり、そのあたりをどのように説明しうるのかが課題ですね。

”ここで起用されたのが、出雲本宗家の嫡孫阿田賀田須命(吾田片隅命)だったのではないか。
この人物はヤマトで生まれたと考えられ、実際にヤマトの古社で祭られているが、その子孫は本宗家系図から 外れ、甥の大田田根子が本宗家を継いで三輪山の祭主となっている。一方阿田賀田須命は忽然と ムナカタに現れ、宗像大社ゆかりの複数社で祖神として祭られている。これらの記録や伝承が示唆するのは、ヤマト王権(ここでは崇神天皇)が阿田賀田須命をムナカタに派遣し、沖ノ島貿易の管理と沖ノ島祭祀の継承を任せたのではないか、ということである。このような管理業務や祭祀儀礼は、宗像海人族には手に余る仕事であった。ヤマト王権にとっては、ヤマトで目の上のこぶであった出雲族の首領を放逐できるので、一石二鳥であった。もちろんこれができたのは、ムナカタと出雲との古くからの深い繋がりがあってのことである。こうして、宗像海人族を管理する胸肩君が誕生した。
このような構造は、神代紀第六段本文でタゴリがイチキシマの上に置かれたことにも現れている。”

【解説】
阿田賀田須命(吾田片隅命)(あたのかたすみ)の話もすでにしました。阿田賀田須命がヤマトにいて宗像にやってきたという記載はどこにもありません。また時代としては崇神天皇の時代ですから、3世紀ころの人です。一方沖ノ島の祭祀が始まったのは、4世紀後半で、ここでも時代が大きくずれてます。したがって矢田氏の推測が当たっているかは、「?」です。
ただし、出雲との関連からタゴリイチキシマの上に置かれたという推測は、ありうるかもしれません。


論文ではこのあと、タギツの話に移ります。
タギツがセオリツから名を変えた話もしました。セオリツはヤマト朝廷の重要神だったのですが、なぜ名前がタギツに変わったのか、その理由を2つ挙げてます。

1番目は、セオリツが、「ソウルの姫」を意味するから、というものです。日本人のアイデンティティーを確立するはずの日本書記に、ソウルの名前があってはまずい、というのです。

2番目は、セオリツを三女神に入れるにあたり、三女神が地祇(くにつかみ)である一方、セオリツは天神であるため、そのままでは入れられなかったのではないか、というものです。
三女神に入れた理由については、「タギツはヤマト王権関連の重要神であるので、全体の祭主が アマテラスと観念されていることと共に、三女神の中のヤマト王権側の「お目付役」としてタギツを加えたのではないか、と推測してます。

タギツが「三女神の中のお目付け役」というのも、面白い発想です。ただし、もしお目付け役で入れるなら、何もそれを隠す必要はないわけで、堂々とお目付け役である天神として明示すればよいではないのか、という疑問も浮かびます。

最後に、三女神と沖の島祭祀の始まりについては、タギツについてより突っ込んだ考察が必要であるとして、本論文は終わります。次回は、この続きです。


誓約系図 

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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(13)~総合考察

ここまでの総合考察です。

”弥生時代のムナカタには朝鮮半島から直輸入された多種文物や葬制などが見られ、その東方への伝播にムナカタ海人族が大きな役割を果たしていたと考えられる。”
と述べたのちに、以下のように興味深い推測をしてます。

それらをもたらした渡来人の有力者が、ムナカタから東進して開いたのが出雲を中心とする日本海沿岸文化であった。『出雲国風土記』が描く出雲の国づくりのリーダのオオアナムチはムナカタの古社に 多く祭神として祭られているが、タゴリはその后神とされムナカタにおける出雲勢力を象徴する神であったと見られる。”

【解説】
渡来人ははじめにムナカタにやってきて、そこから東進して出雲に定着した、というのです。古事記・日本書記によると、スサノオノミコトは、直接出雲にやってきたとされており、オオナムチすなわち大国主命はその直系あるいは娘婿です。つまり矢田氏の推測と逆ということになります。

”弥生時代中期以降、朝鮮半島南部での生産が急増し、日本にも流入が始まる。その中継基地は、韓国南西部海岸にある周囲数㌔の小島勒島(ろくとう、ヌクト)であった(以下図8参照)。
その勒島で使われていた土器が、沖ノ島から数個出土し、ムナカタでも田熊石畑遺跡で出土している。勒島式土器は、交易の寄港地であった対馬、壱岐、糸島半島西部に多く出土するが、「奴国」があった博多湾沿岸には殆ど入らず、ムナカタ以東では山口県から鳥取県までの日本海沿岸に数多く出土する。このことから、朝鮮半島からの渡来人が出雲勢力の範囲内に多く定着したことが分かる。そしてその渡来ルートには、前報のムナカタルート1と2がいずれも使用されていたことが分かる。そしてこの頃の弥生土器が、勒島をはじめそれ以東の朝鮮半島沿海部の多くの遺跡で出土するので、これらルートは日本列島からの渡韓にも多く利用されていたことが分かる。
神話でオオアナムチとタゴリの間の子とされるアジスキは、鉄器にゆかりのある神のようである。この神が田熊石畑遺跡の面する八並川の谷にオオアナムチおよび妹神のシタテルと共に三カ所で祭られていることは、同遺跡で勒島式土器が出ていることとの繋がりを思わせる。アジスキは勒島式土器が 多く出た出雲の諸遺跡の近くの式内社阿須伎(あずき)神社の主祭神であり、タゴリーアジスキ信仰がこのころムナカタと出雲とで共有されたと考えることができよう。

【解説】
勒島式土器が対馬、壱岐、糸島西部、沖ノ島、ムナカタから山口、出雲と出土しており、交易がうかがえます。注目は間にある博多湾岸(通説「奴国」)にはほとんど入っていないことです。ムナカタ海人族とは別の勢力が支配していたからでしょう。ただし下の図で見る限り、ムナカタルート2は博多湾岸も含まれてます。このあたりをどのように解釈してるのか、正直よくわかりません。


<図8>
勒島式土器出土状況 

<ムナカタルート>
ムナカタルート 

”勒島の繁栄は弥生時代後期に入ると衰退し、交易の中心基地は壱岐の原の辻遺跡に取って代わられた。これを久住猛雄は「原の辻=三雲貿易」と呼ぶ。
これは糸島市の三雲や春日市の須玖で「王墓」が造られ、奴国が金印を受領した時代である。朝鮮半島にも三韓南部諸国が成立し、鉄生産と流通を掌握したと見られる。これ以降鉄製品の流入と鉄器生産が福岡平野に集中し、全国から鉄を求めて人が集まるようになる。
しかし一方で、山陰への鉄の流入は止まなかった。青谷上寺地の繁栄は続いていたし、その手前大山山麓の妻木晩田(むきばんだ)遺跡(図8参照)には、鉄器がふんだんに流入していた。この遺跡では福岡平野のような 高度な鉄器加工は行われておらず、鉄素材と鉄器は朝鮮半島から直接輸入されていたと見られている。鉄器の流入はさらに東進し、丹後半島のいくつかの遺跡で多量に発見されるようになる。
これらの弥生時代後期の山陰地方の鉄器出土状況は、「原の辻=三雲貿易」を管理する筑前西部の首長に干渉されない貿易ルートが存在していたことを示す。それは沖ノ島ルート1にほかならない。
前報で指摘したように、このルートでは、特に半島から列島への方向の渡海では、ムナカタを経由せず沖ノ島から直接山口県西岸に到達するバリエーションが可能で、この時期の山陰への鉄器の輸入にはそのルートが使われたのではないか。弥生時代後期にムナカタでそれほど顕著な遺跡が発見されていないことも、その推測を支持する。弥生終末期になると、「原の辻=三雲貿易」は「博多湾岸貿易」に移行し、鉄器などの博多湾岸への集中はさらに進む。一方で沖ノ島―出雲ルートの重要度はさらに 増したと考えられる。
ムナカタ本土を経由しないこのルートでの航海には、必ずしもムナカタの海人の協力を必要としない。宗像出身であっても、沖ノ島―出雲ルートに特化した海人が参加していたのではないか。そのような海人は、沖ノ島の神としてタゴリをも祭るようになったのではないか。

【解説】
「原の辻=三雲貿易」の時期について、通説「奴国」王が金印を拝受した前後、すなわち57年頃としてます。このころ鉄のルートを掌握し、鉄器生産が福岡平野に集中するようになった。その一方で鳥取県妻木晩田(むきばんだ)遺跡、丹後半島など日本海ルートが別にあったとして、それが沖ノ島ルート(ムナカタルート)1だった、と推測してます。
そしてその後「原の辻=三雲貿易」が「博多湾岸貿易」に移行したが、沖ノ島ー出雲ルートの重要度はさらに増した。このルートに特化した宗像海人族がいたのではないか、そのような海人が沖ノ島の神として、タゴリを祭るようになったのではないか、と推測してるわけです。

一読すると、なるほどという感じです。
しかしながらここで疑問が沸きます。

朝鮮半島から出雲地方に行くのに、わざわざ沖ノ島を経由する必要があったのか、という点です。

実際、久住氏論文の下図をみると、博多から直接出雲、丹後に行っているようにみえます。もちろん沖ノ島を経由してもいいのですが、あえて沖ノ島に一度寄港することが効率いいようには思えません。久住氏論文の内容は、
「纏向遺跡は邪馬台国か?(15)~比恵・那珂周辺遺跡群の果たした役割」
を参照ください。

沖ノ島に壱岐の原の辻のような機能があったのなら、原の辻遺跡なみの港湾や市場などの遺跡が残っているはずです。
”原の辻遺跡は、三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡、日本最古の船着き場の跡、魏志倭人伝に出てくる卑狗と卑奴母離などの役人の家や役所があったと想像される場所、墓地が見つかっており、遺跡全体の総面積は100ヘクタールにも及ぶ広大なものである。”(Wikipediaより)

沖ノ島には、今のところこのような遺跡は報告されてません。もちろん遺跡がこれから出てくる可能性はありますが、沖ノ島は海岸近くまで山が迫っており平地も少なく、原の辻遺跡の面積100haは、沖ノ島全体面積にもあたるのです。原の辻ほどの機能をもてたのか疑問がつきます。

では当時、沖ノ島では人々はどのような生活をしていたのでしょうか?
”当時の暮らしを想像すると、沖ノ島周辺は大変良好な漁場で、漁を糧(かて)としている朝鮮半島の金海市周辺の人々と宗像の人々が一緒に操業し、仲良く沖ノ島でベースキャンプを張っていたのではないでしょうか。昭和の発掘調査で発見された土器は、そのときのものではないかと考えることもできます。
現在、沖ノ島では、大島の人がベースキャンプを張ってサワラ漁などをしています。”(「遺産登録事情27」<海人たちの軌跡(弥生時代の沖ノ島)、宗像市HP,2008年)

これを読む限り、素朴な漁村の光景です。とても魏志倭人伝が描く壱岐の原の辻のような、賑わいのある港湾都市ではないですね。

ただし対馬~出雲ルートの交易には海人族の協力が必要だったでしょうから、ムナカタの海人族が関与していたことは、十分に考えられます。


博多湾貿易 

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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(12)~ムナカタの神社の祈りの方向

前回は、宗像大社の社殿の方向から、祈りの方向をみてきました。では、ムナカタ全体では祈りの方向はどうなっているでしょうか?。

図7は、ムナカタの主な神社74社の方位の調査結果です。

宗像神社の向き


"明らかに、北から西にかけての方向、すなわち海の方向に向かって祈る神社が多く、過半数の39社である。中でも、ほぼ沖ノ島の方向(辺津宮で約320度)に当たる310度から330度の間に15社が集中 している。全国的には古社に夏至・冬至の日の出・日の入りの方向を向いて祈る神社が多く、後には 中国思想の影響で東西南北を向く神社が多い中で、このような分布は異例と言えよう。”

【解説】
図のとおり、沖ノ島方向を向いている神社が多いですね。もう少し細かくみると、宗像神を祭る神社は、その多くが沖ノ島を向いていることがわかります。

"宗像市地島の厳島神社はほぼ正確に沖ノ島を向いて祈る(以下神社の位置は図1参照)。この神社は 現在同島の泊にあり三女神を祭るが、『正平二三年 宗像宮年中行事』に「市杵島姫社 白浜」と あり、かつて同島の中央部白浜にあってイチキシマを祭る神社であったらしい。地島では、白浜の牧神社、西岸の海に面して立つ石祠の竜宮社など、殆どがほぼ正確に沖ノ島を向いて祈る。地島が沖ノ島への最終出発地であった歴史が長いことを示していると思われる。”
航海の難所鐘崎の織幡神社の現社殿の祈る方向は沖ノ島の方向よりやや北に振るが、同社宮司は旧参道がかつてほぼ正確に沖ノ島の方向を向いていたという。この神社は中世以来宗像神社の摂社の筆頭とされ、宗像5社の筆頭であった。延喜式にも宗像神社と共に大社として名を連ねている。現在は武内宿弥など宗像神以外の祭神が多いが、歴史的・地理的に見て本来沖ノ島信仰の社であったと思われる。
かつて草崎半島中腹にあったと伝える旧津加計志(つかけし)宮も、現在神湊港を見下ろす高台にある大社の頓宮がこれに向かい合って作られたと考えると、沖ノ島を向いて祭っていた可能性が強い。この神社は、江戸の三風土記がいずれも祭神をイチキシマとしている(現在は三女神)。この神社の祭神と祈る向きからも、沖ノ島の神が本来イチキシマであったことが示唆される。
また前述のオオアナムチ・タゴリなど宗像君の祖と諸首長らを祭る大都加(大塚)神社も、ほぼ沖ノ島を向いて祭る。宗像君が沖ノ島祭祀に関わっていたことを示す傍証の一つと言える。

内陸部では、須恵の三女神を祭る古社福足(ふくたり)神社はほぼ沖ノ島を向くが、この神社は『筑前国続風土記付録』『筑前国続風土記拾遺』のいずれもイチキシマを祭るとし、イチキシマを祭る岡垣町波津の 景石(けいし)神社との繋がりが述べられている。湯川山から響灘に突き出た尾根上にある景石神社は、沖ノ島を望む絶好点であるが現在の社殿はその方角を向いていない。
宗像神を祭らない神社でも、勝浦の年毛(としも)神社や田久の若八幡神社など沖ノ島の方角を向いて祈る神社がある。この二社はいずれも宗像七五社のうちにあり、かつては沖ノ島の神を祭っていたと思われる。

【解説】
個別の神社の祭る方向です。こうした事実が、沖ノ島の神はもともとイチキシマだったことと対応していると、次のように述べてます。

”神代紀第六段で本文より古い伝承を残す第一と第三の一書は沖ノ島の神をイチキシマとしており、ムナカタの古社の祭神と祈る方向から沖ノ島の神をイチキシマとする信仰が根強く残ることと対応している。

確かに可能性はありますね。

宗像地方神社向き
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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(11)~祭祀の方向から見える沖ノ島の神

今回は視点を変えて、神社が祭る方向をみていきます。

田島の辺津宮(宗像大社)の中世までの社殿配置の概況です。「宗像千貫寫田島社頭古絵図」により、仏教関係施設を省略し神社社殿のみを概略トレースして示したものです。

<古絵図>

「田島社頭古絵図」 


<現在の宗像大社>
宗像大社境内図 

(宗像大社HPより)

”この図を見ると、第一宮の位置と向きは現在と変わらないが、第二宮と第三宮は全く異なる方向を向いていることが分かる。これはそれぞれの宮で、異なる対象を拝んでいるためと考えられる。この中で イチキシマを祭る第三宮は、まさに沖ノ島の方向を向いて祈る配置となっており、イチキシマが本来の沖ノ島の神というこれまでの検討結果を裏付けている。それでは他の二宮はなぜこのような向きに建てられていたのであろうか。”

【解説】
上の図をみると、宗像大社の三つの宮の向きは、中世と現在では同じでないことがわかります。具体的には、第一宮は同じですが、第二宮と第三宮はまったく異なってます。
中世では、第三宮は沖の島に向かって拝んでおり、第三宮はイチキシマを祭ってますから、イチキシマが本来の沖ノ島の神であることを裏付けている、といっているわけです。
では、他の宮はなぜこのような向きに建てられたのか?、という疑問に対して、矢田氏は以下のとおり、宗像地域全体の祭祀の分布から推測してます。

第一宮の祈る方向に最も合致するのは、タゴリとオオアナムチを祭る矢房神社である。出雲系の遺跡として紹介した東郷高塚古墳や田熊石畑遺跡、光岡長尾遺跡などもほぼこの方向にある。矢房神社は、東郷高塚古墳を向いて祈る配置となっているので、その被葬者を祭る神社ではないかと考えられる。前述のように、この古墳の被葬者は出雲系の胸肩君の首長のいずれかであった可能性がある。時期的には胸肩君の祖吾田片隅命(阿田賀田須命)の可能性が強い。出雲系のタゴリを主神としていた旧第一宮で、出雲系の胸肩君の祖の墓を向いて祈るのは十分考えられることである。上高宮古墳のある「宗像山」からは、東郷の辺りを望むことができる。かつては東郷高塚古墳も見えたはずである。ただし第一宮が沖ノ島の方向をも重視したことは、山野善郎が指摘するように、本殿が背面中央に扉を開く特異な構造になっていたことでも分かる。これは現在の本殿にも踏襲され、賽銭箱も置いてあった(平成の大造営後は撤去されている)。大社の神職も、本殿背面から中津宮を通して沖津宮まで三宮を一度に拝むことができると説明していた。これが田島での祭祀の、本来のあり方であろう。田島は東郷から沖ノ島へ向かう直線上にあるので、あるいは田島での祭祀がこの「信仰線」上で始められたとも考えることができる。


【解説】
第一宮の祈る方向に、矢房神社があります。矢房神社は、第一宮と同じくタゴリを祭ってます。この祈りの軸の反対側、つまり海側の延長線上に、沖の島があるわけです。
矢田氏は、東郷高塚古墳の被葬者を、阿田賀田須命と推測してます。しかしながら、東郷高塚古墳は、4世紀後半頃の築造とされてます。一方阿田賀田須命は、崇神天皇の頃の人ですから、3世紀頃の人と推測されます。時代が大きくずれますので、「?」でしょう。

「田島社頭古絵図」祈り方向 



 


”一方旧第二宮からの祈りの方向には、まず前述の大都加神社と、生家大塚古墳がある。しかしこれら出雲系の胸肩君の一族が残したと思われる古墳と神社と、タギツとの間に接点が見えてこない。なお新原奴山古墳群の中核部はこの線からやや外れるので、可能性はさらに薄いであろう。さらに延長すると、津屋崎の波折神社に到達する。この主祭神はセオリツであり、セオリツがタギツの元の名とすると、タギツの方向を示すことになる。津屋崎方面は田島からは望めないが、田島の西方の名児山などに昇れば見通すことができる。”

【解説】
旧第二宮、すなわち古絵図の第二宮の祈る方向ですが、波折神社に向かってます。この主祭神がセオリツであり、これは旧第二宮がセオリツを祭っていることと一致している、というわけです。なるほどそのとおりです。
こうした方角を使った解釈は、古代史においても他にも様々なされているところです。ただし心すべきことは、それらは慎重になされるべきということです。具体的には、それらが偶然の一致に過ぎないのか、あるいはこじつけになっていないか、という観点です。

今回の説についても、祈りの方向には大都加神社と生家大塚古墳があるのにもかかわらず、それらとの関係性は見出せません。それはなぜなのか?、という問題が残ります。祈りの方向はいくらでも遠くに延長できるわけで、そうなればその先には何がしかの神社や遺跡があるでしょう。そのなかで自分の説に合った神社・遺跡をピックアップして、説明することにもなりがちだからです。

なお私は、矢田氏の今回の解釈を否定しているわけではありません。あくまで短絡的に考えないようにすべきである、という自分自身への戒めも含めてということです。念のため・・・。

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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(10)~イチキシマとタゴリが入れ替わった?


前回は、三女神の一人、タギツについてでした。謎の多い神ですが、どうやら元はセオリツだったものを、タギツに変わった(変えさせられた)のではないか?、という話でした。このあたりを深堀りしていきます。

まずは宗像大社、沖ノ島の神の変遷を整理します。

宗像大社の現在の祭神です。
・本殿(第一宮、イチキシマヒメ
・第二宮(沖津宮分社、タゴリヒメ)
・第三宮(中津宮分社、タギツヒメ)
つまり主祭神はイチキシマということです。

実はこれは古代からこのようなものだったわけではなく変遷してきた、というのです。論文を時代を追ってみます。

A.『宗像大菩薩御縁起』鎌倉時代末期成立
・タゴリ 息御島(沖ノ島)
・タギツ 大嶋
イチキシマ 田嶋(辺津島)
に鎮座。
 .田嶋の惣社
・第二者 湍津姫 居左間 本地釈迦如来
・第一者 田心姫 居中間 本地大日如来
・第三者 市杵嶋姫 居右間 本地薬師如来
とあり、食い違っている。

B.『正平二三年 宗像宮年中行事』(正平二三年は1368年)
・第一大神宮 田心姫一所 息御島 沖津島
・第二大神宮 湍津姫一所 中御島 中津島
・第三大神宮 市杵嶋姫一所    辺津島

沖ノ島の神が辺津宮の本殿の神(田心姫)と同一。
いずれの史料においても、田嶋の第一大神宮(惣社)における三神の配置は、現在の辺津宮における 配置とは異なっている。

C.『神道集成』(脱稿1670年)徳川(水戸)光圀の命で編纂 「神代歴代系図(日本紀)」の三女神の項
田心姫命に「筑前国宗像郡胸肩神社
・湍津姫命に「豊前国宇佐郡宇佐宮」
・市杵嶋姫命に「安芸国佐伯郡伊都伎嶋神社」
宗像神社の代表神がタゴリと考えられていたことが確認できる。
これと同様の記述が、坂内直頼の『本朝諸社一覧』(1645)や白井宗因の 『神社啓蒙』と『神社便覧』(1664-1674成立)にも現れる。

D.福岡藩の儒者による三風土記
辺津宮(田嶋神社)ではタゴリを第一神とし、タギツを 第二神、イチキシマを第三神
・沖津宮に関しては、中世文書の混乱を引き継いでいる。
『筑前国続風土記』
奥の島の神を田島の神職はイチキシマとするが、奥津島の社職がタゴリを 第一とすると紹介している。
『筑前国続風土記付録』
・社家の祭るところとして、前者の説を正としている。
『筑前国続風土記拾遺』は、この件に触れていない。

E.宗像神社が明治3年(1870)政府に提出した明細帳
辺津宮の祭神が『宗像大菩薩御縁起』の惣社と同じ配置(第一者 田心姫で記されていた。その後神祇関係者に『古事記』の信奉者が多かったためか、『古事記』の祭神配置と神名に影響されることが多く、混乱を来してきた(詳細は『宗像神社史』参照)。

昭和32年に至ってやっと現行の『日本書紀』に基づく神名に復帰したが、辺津宮本殿の祭神は中世以降の第一宮(惣社)と異なりイチキシマとなっている。『宗像神社史』は、これは中世の第一宮が現在の本殿とは異なり、沖津宮・中津宮・辺津宮の「惣社」であったからとしているが、それでは現在の第二宮(タゴリ)と第三宮(タギツ)の主神が中世の伝承と異なることは、説明できない。

以上のような祭神の混乱は、『日本書紀』神代紀第六段本文の三女神の序列を、同段第二の一書や 『古事記』の記述に「釣られ」て、祭神と三宮との対応と読んだことに原因があると思われる。それは すでに『宗像大菩薩御縁起』に始まっていた。
(以上論文)

【解説】
わかりにくいところなので解説すると、
・『日本書紀』神代紀第六段本文の三女神の序列

  田心姫、
  湍津姫
  市杵嶋姫
・同段第二の一書の三女神の序列
  市杵嶋姫命…遠瀛、
  田心姫命…中瀛、
  湍津姫命…海浜
・『古事記』の三女神の序列
  多紀理毘賣(奥津島比賣)…胸形奥津宮
  市寸島比賣(狭依毘賣)…胸形中津宮、
  多岐都比賣…胸形辺津宮
です。
日本書紀第二の一書と古事記では、沖津島、中津島、辺津島の順番になっていたので、日本書紀本文にある
・田心姫を沖津島に、
・湍津姫を中津島に
・市杵嶋姫を辺津島に

当てた、ということです。

以上、論文の概略です。たいへん詳しく調べられておりますが、その分ややこしくわかりにくいですね。
ようは沖ノ島と宗像大社の祭神は、変遷している、ということです。具体的には、

沖ノ島(沖津島)・・・イチキシマからタゴリ
宗像大社(辺津島)・・タゴリからイチキシマ

と変遷した、ということです。
そしてその理由を、日本書記、古事記の記載の読み間違えではないか、と推測してるわけです。

<宗像大社辺津宮>
宗像大社

(Wikipediaより)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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